この季節、鮮やかな紅色をした梅の花が咲いているのを見ると、春の訪れを感じますよね。梅は花自体の美しさから観賞用としても育てられていますが、梅干や梅酒など、古くから食用としても愛されていました。同時に未熟な青梅には、アミグダリンという有毒成分が含まれており、危険な花でもあります。
この記事では、日本人に馴染みの深い「梅」の知っているようで知らない物語を、『花の神話』(秦寛博 著)の中からお話しします。
目次
古代の中国、日本にとっての梅の価値
古くから書物にも登場している梅ですが、最古と思われる梅は、紀元前14世紀の殷王朝の遺跡から見つかっています。食用としても愛されており、6世紀の書物『斉民要術』には、すでに梅干や梅酢の作りかたが記されていたほどです。当時の梅は結婚の象徴であり、女性から男性へのプロポーズにも使われていました。これは、妊婦が梅のような酸味のある食べ物を好むためです。また中国には、「とるにたらない代用品でも、一時しのぎにはなる」ことを意味する、「梅を望んで渇きを止む」ということわざがあります。これは明の作家・羅貫中の作品『三国志演義』にて、魏の武帝・曹操が渇きに苦しむ自軍の兵士たちに梅を想像させたというエピソードが由来となっています。梅の実のすっぱさを思い起こさせることで唾を出させ、水場までの渇きを紛らわしたというのです。
弥生時代になると日本にも梅が到来し、751年に編纂された『懐風藻』には、「春日翫鶯梅(春の日に梅と鶯を愛でる)」という漢詩が収録されています。花札でもお馴染みとなっている梅と鶯の組み合わせが登場するのは、この詩が歴史上初めてといわれています。
京から大宰府まで飛んだ⁉ 菅原道真の飛び梅伝説
現代の日本人にとって菅原道真と言えば、「学問の神様」のイメージが強いのではないでしょうか。受験前に、菅原道真にゆかりのある神社を参拝した人もいるかもしれませんね。確かに道真は学問を愛していましたが、実は学問と同じくらい梅を愛していたのはご存知ですか?
道真の屋敷には多くの紅梅が植えられており、その邸宅は紅梅殿とも呼ばれていました。
他にも、梅の花を人生にたとえ「学ぶ者がたえず本を開いていれば、梅の花もおなじように勢いよく開く。怠けて本を閉じれば、梅の花は開きはしない」という言葉を残しているほどです。
そんな道真ですが、901年に福岡県の大宰府へと左遷されてしまいます。当然、屋敷の梅とも別れることになります。そこで道真は「東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と歌を詠みました。
そんな道真の想いに答えるように、梅は平安京(京都市)にある道真の屋敷の庭から大宰府まで飛んでいき、見事な花を咲かせたといわれています。
これが現在でも語り継がれている、「飛び梅」の伝承となりました。
◎関連記事
雛人形はなかった? 3月3日の「桃の節句」が生まれた理由
松竹梅はどうして縁起が良いの?
めでたいものを意味する「松竹梅」という言葉がありますね。現代の日本でも広く使われているため、聞いたことがある人も多いと思います。この「松竹梅」の歴史は古く、平安時代にはすでに存在していました。由来となったのは、中国の厳寒(歳寒)三友です。松、竹、梅はすべて冬の寒さに耐えながら花を咲かせるため、縁起のよいものとされたのです。
他にも、寒さに耐えて開花・結実する様子をめでたいとする風習は、「梅花の姫君」にもみられます。梅花の姫君は、子供に恵まれなかった豊後守盛高とその妻が、何日も観音菩薩に祈りをささげたことで授かった子供でした。観音菩薩の前から飛んできた梅が服の袂に入るという夢を、妊娠前の盛高の妻が見ています。その夢にちなんで、生まれた娘は「花世の姫」と名づけられました。
しかし姫が9歳のときに、盛高の妻が病気により他界してしまいます。盛高は後妻を娶りますが、娘の養育に熱心な夫に腹を立てた後妻は、狼や鬼が住む姥捨て山に姫を置き去りにしたのです。
突如命の危険に晒されることになった姫ですが、運良く山中に住む山姥に保護されました。
そして譲ってもらった山姥の衣で身をやつし、人里にある中納言家の火焚女となったのです。
身を守るため老女に扮していた姫ですが、やがて中納言三男である宰相の目に止まります。そして足しげく通う宰相と恋に落ち、二人は結ばれたのでした。
「雨降って地固まる」とことわざもあるように、つらい経験を乗り越えたあとには花が咲いて実を結ぶという考え方は、現代にも通じるものがありますね。
◎関連記事
クローンの桜? いつか消えるかもしれない「ソメイヨシノ」
黒い花には毒がある? 古代に愛されたスイレンの神話と信仰
◎Kindleで読む