全2回にわたってお届けする「マヤ文明」。今回の後編では、マヤ文明の3つの大きな特徴である「マヤ文字」「暦」「生け贄を決めるための球技」についてご紹介しましょう。
【驚愕のマヤ文明・前編】マヤ文明の繁栄&衰退理由とは?
まるで絵文字のような複雑な文字が使われ、天文観測に基づく正確な暦が作られるなど、高度な文化を持っていたマヤ文明の時代。一方で、ちょっとグロテスクな生け贄の儀式も行われていたようです。
目次
マヤ文明・驚愕の文化①絵文字みたいな「マヤ文字」
最初にご紹介するのは「マヤ文字」です。マヤの人々は独特のフォルムをした文字を使い、その歴史を後世に伝えていました。
*マヤ文字の特徴とは?*
・絵文字のようだが、実は表意文字と表音文字が複雑に組み合わさったもの。
・ひとつの文字を構成する「文字素」(主字や接字)は全部で861もある。
・「楷書体」や「草書体」といった書体がある。
・古典期に石碑に刻まれた碑文が中心。主な内容は、王の業績とその日付など。
・スペイン人宣教師によって焼かれてしまったため、現存する絵文書は4点のみ。
マヤ文字は絵文字のような不思議な形をしていますが、実は表意文字と表音文字の組み合わせでできています。日本語が漢字(表意文字)と平仮名・片仮名(表音文字)からできているのと似ていますね。
日本語に様々な書体があるように、マヤ文字にも「楷書体」や「草書体」があります。楷書体は主に石碑に、草書体は土器や絵文書などに文字を記す時に使われていました。
解読が進んできているものの、マヤ文字はまだ全て解明されたわけではありません。というのも、かつてスペイン人たちがメソアメリカを侵略した際、スペイン人宣教師ディエゴ・デ・ランダによってたくさんの絵文書が燃やされてしまったのです。
そのため、現在まで残っている絵文書はわずか4点のみ(『ドレスデン絵文書』『マドリッド絵文書』『グロリア絵文書』『パリ絵文書』)となっています。
絵文書の他、マヤ文字は石碑にもよく刻まれています。マヤ文字は先古典期(紀元前1000年以降~250年頃)からすでに使われていましたが、古典期(250~900年頃)になると、石碑などに王の業績(誕生、即位、結婚、戦歴など)とその日付が刻まれるようになりました。しかし後古典期(900年頃~16世紀前半)になると、どういうわけか石碑に文字を刻む習慣は廃れてしまいます。
マヤ文字の解読が完了すれば、マヤ文明をめぐる謎もさらに解明されるようになるかもしれませんね。
マヤ文明・驚愕の文化②みっつもあった「暦」
マヤ文明ではみっつの暦が使われていました。それぞれ「長期暦」「太陽暦」「祭祀暦」といいます。どんな暦なのか簡単にご紹介しましょう。
・ある特定の日を基準に、その日から何日目と数えるもの。石碑の碑文にはこの長期暦での日付が刻まれている。
・基準となる日は西暦では「紀元前3114年9月6日」(異論もあり)。
・その日から何日目というのは、20進法と18進法の組み合わせで表記される。
・主に農耕のために使われた。
・1年=365日、1ヶ月=20日。20日×18ヶ月+5日=365日で構成されている。
・最後の5日間は太陽の力が弱まる「不吉な日」なので、仕事を休み家で過ごした。
・宗教儀式用の暦。
・1年=260日、1周期=13日。13日×20周期=260日。
長期暦は石碑に碑文を刻む時に使われ、日常生活では太陽暦と祭祀暦を組み合わせて使用しています。ふたつの暦がちょうど同じ組み合わせになるには約52年かかりました。
これらの暦、特に太陽暦を作成するため、マヤの人々は天文観測を行っていました。紀元前の昔から、彼らは高度な天文知識を得ていたのです。
ちなみに長期暦は2012年で終わるとされたことから、オカルト好きの人々を中心に、2012年で人類は滅亡するのではないかという噂が流れたことがありました。しかし専門家の間ではこの説は否定されており、現実にも(今のところ)人類は滅亡せずに続いています。
マヤ文明・驚愕の文化③生け贄を決める「球技」
マヤの人々の価値観は、現代の私たちとは大きく異なっていました。五穀豊穣や世界の安寧を祈るために、血を流す儀礼がよく行われていたのです。
その代表的なものが「生け贄の儀式」です。儀式では生け贄にされた人だけでなく、王も自らの性器に棘を刺すなどして、血を流していました。
また、時には生け贄を決めるための「球技」も行われています。
*生け贄を決める「球技」とは?*
・マヤ文明だけでなく、メソアメリカ各地で行われていた。
・身体に防具をつけた戦士たちがふたつのチームに分かれ、ゴム製のボールを打ち合う。
・球戯場の両サイドに設けられたドーナツ状の石環にボールを通せば勝ち。
・勝者、敗者のどちらかの戦士が殺害され生け贄にされた。
球技の後に生け贄にされたのは、勝ったチームの戦士とも、負けたチームの戦士ともいわれています。マヤの人々の間では、生け贄に選ばれるのは名誉あることだと考えられていたので、球技の勝者が生け贄になった可能性も考えられるのです。
全2回にわたり、謎多きマヤ文明についてご紹介してきました。まだまだ発掘調査が進んでいないところもあり、その全貌解明には時間がかかるかもしれません。マヤ文明はこれからも私たちを魅了し続けそうです。
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