「マヤ文明」と聞いて何を思い浮かべますか? 巨大なピラミッド、独特な文字、生け贄の儀式などでしょうか。少し前には、マヤの暦では世界の終末が迫っているという説がブームになったこともありましたね。
今回から2回に分けて、知っているようで実は知らない、マヤ文明の驚きの歴史や文化をご紹介します。まずこの前編では、マヤ文明の歴史を巡る謎に迫っていきましょう。
目次
ざっくりまとめる「マヤ文明」
「名前は聞いたことがあるけれど、詳しくはない」「マヤ? インカ? 中南米の文明って色々あるけど何が違うの?」という方も多いと思いますので、まずはマヤ文明の特徴や他の文明との相違点をざっくり簡単にご紹介しましょう。
*ざっくりまとめるマヤ文明*
◆場所:「メソアメリカ」(いわゆる「中米」)
=メキシコ、グァテマラ、ベリーズ、ホンジュラス、エルサルバドル
◆時代:3つの時代区分に分けられる。
①先古典期:紀元前1000年以降~紀元後250年頃
②古典期:250年頃~900年頃
③後古典期:900年頃~16世紀前半
◆特徴:
・統一された都市国家ではなく、小国が群雄割拠していた。
・階段状の神殿ピラミッドや石造都市を建造。
・「マヤ文字」=発達した文字体系があった。
・高度な天文学と暦法を使っていた。
・多神教。生贄の習慣があった。
文明というと、エジプト文明やメソポタミア文明のように大河の流域で発展するイメージがありますが、マヤ文明は違います。マヤ文明が発展したメキシコやグァテマラ、ベリーズといった地域(=メソアメリカ)には大きな河川が無く、「セノーテ」と呼ばれる泉を頼りに都市を発展させていったのです。
マヤの人々はこの「セノーテ」を生活用水や農業用水として活用し、多数の石造都市や階段状のピラミッドを持つ高度な文明を築き上げます。マヤ文明には他にも複雑な「マヤ文字」や独自の暦法、生贄の儀式といった特徴がありました。しかし小国が群雄割拠するだけで統一された強国の時代が長く続くことはなく、文明は衰退し、最終的にはスペイ
ン人によって植民地化されてしまいました。
マヤとインカ、アステカなどの区別がよくわからないという方もいることでしょう。大きく分けると、中米=マヤ、アステカ、南米=インカ帝国、という区分になります。場所ごとの代表的な国家や遺跡の名前は次の通りです。
マヤ文明の謎①紀元前に壮麗な石造都市を建設していた
それではいよいよマヤ文明の謎を追っていきましょう。
そもそもマヤ文明はいつ頃からどこで始まったのか諸説あり、はっきりしたことはわかっていません。宇宙人が創った文明だという説が登場する程、謎に満ちた文明なのです。
では、マヤではいつ頃から都市が建設され始めたのでしょう?
マヤ文明は先古典期、古典期、後古典期の3つの時代に分けられます。
①先古典期:紀元前1000年以降~紀元後250年頃
②古典期:250年頃~900年頃
③後古典期:900年頃~16世紀前半
②古典期:250年頃~900年頃
③後古典期:900年頃~16世紀前半
これまで専門家の間では、①先古典期にマヤ文明が誕生し、②古典期に最盛期を迎え、③後古典期に衰退していったと考えられていました。
ところが遺跡発掘が進むにつれ、先古典期の時代に、すでに古典期よりも壮麗な石造都市が建設されていたことがわかってきたのです。
*先古典期に建設されたすごい建造物*
・ダンテ・ピラミッド……紀元前400年頃からあるエル・ミラドールという都市に造られた、マヤ文明最大級の建造物。基壇の底辺は350m×450m、高さは70mもある。
・ナクベ……ナクベは紀元前800年頃から建設が始まったエル・ミラドール近隣の都市。この都市にも高さ18mの神殿があった。
・カラクルム……先古典期に建設が始まった都市で、古典期に繁栄を極めた。中でも大神殿「建造物2」は高さが45mもあり、先古典期にはすでに建設が始まっていたことがわかっている。
こうした発掘結果から近年では、古典期、つまりマヤ文明の最盛期はもっと早くから始まっていたのではないかと考えられるようになってきました。マヤの社会は私たちの想像よりもずっと早くから成熟を迎えていたのです。
マヤ文明の謎②ピラミッドはなぜ建設されたの?
では、マヤの人々が巨大ピラミッドを建てた理由は何でしょう?
「神殿ピラミッド」などと呼ばれるように、マヤのピラミッドの最上部は大きな部屋になっており、神殿として使われていたと考えられています。また発掘調査の結果、遺跡によっては王墓が造営されていたケースがあることもわかってきました。
マヤのピラミッドは王を葬り、様々な儀式を行う場所として建造されていたのです。
しかし、ピラミッドの謎はまだ全て解明されたわけではありません。地下通路や隠し部屋があるのではないかという説が唱えられているのです。
たとえば後古典期に台頭した都市国家チェチェン・イツァーの遺跡ではピラミッドの地下に隠されたセノーテ(泉)が発見されており、現在もさらなる調査が続けられています。ピラミッドにまつわる謎はこれからもたくさんの人を魅了し続けそうです。
マヤ文明の謎③古典マヤ文明衰亡の理由は?
古典期になると、マヤ文明ではティカル、カラクムル、コパン、パレンケといった都市国家が台頭し始めます。これらの都市国家は覇権を競い合い、時には友好関係を築いて共存し合っていましたが、いずれもマヤ地域を統一することはありませんでした。
やがて9~10世紀初頭になると、これらの有力都市は次々と衰亡し、放棄されてしまいます。いったい何があったのでしょう?
研究者たちは次のような説を唱えています。
①地震などの自然災害や、疫病が相次いで発生した。
②気候変動で干ばつなどが起こった。
③人口が急激に増加し、生態系が破壊された。
④都市国家同士の戦争が激化した。または国内で反乱があった。
⑤交易ルートが再編され、北部の低地を中心に街の地位が低下した。
②気候変動で干ばつなどが起こった。
③人口が急激に増加し、生態系が破壊された。
④都市国家同士の戦争が激化した。または国内で反乱があった。
⑤交易ルートが再編され、北部の低地を中心に街の地位が低下した。
しかしどの説も決め手に欠けており、現時点でははっきりした原因はわかっていません。もしかすると、上記の要因のいくつかが組み合わさった可能性も考えられます。
その後のマヤ文明~滅亡への道~
後古典期になると、ウシュマルやチェチェン・イツァーといった都市国家が誕生し、ユカタン半島を支配するようになります。12世紀末~13世紀までにチェチェン・イツァーが滅亡すると、今度はその流れを汲むというマヤパンが台頭しました。
マヤパンの都市はわずか4㎢しかなく、町の中には数千もの建物がひしめき合っていたといいます。周囲は高い城壁で囲われていましたが、これは当時のユカタン半島で小国同士の激しい抗争が行われていたためです。
国内の反乱により、1450年前後にはマヤパンも滅亡してしまいます。その後は有力な国家が現れないまま各地に小さな都市が乱立していましたが、やがてスペイン人によって征服されてしまいました。
次回の後編では、マヤ文明の特徴であるマヤ文字、複雑な暦、生け贄の儀式をご紹介しましょう。
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