(C) 2019 HUMAN LOST Project
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執筆:ナガ
あの『人間失格』が現代に蘇った。
太宰治の『人間失格』が蘇ったというトピックであれば、2007年に『DEATH NOTE』などで知られる人気漫画家、小畑健のイラストを文庫本の表紙にしたことで、1か月半で7万部超の売り上げを記録したという出来事もあった。
しかし、今回はあの名作がなんとサイバーパンク的SF作品として蘇ったのである。
なぜ。今になって『人間失格』を、しかもSF作品にコンバートするという超解釈で描き直す必要があるのか。今回はその真意に迫ってみたいと思う。
『HUMAN LOST 人間失格』とタイトルに冠した本作を手掛けたのは、マルドゥック・シリーズやシュピーゲル・シリーズで知られる冲方丁だ。彼は現在放送中の『PSYCHO-PASS 3』のシリーズ構成・脚本も担当している。
本作は昭和111年の東京を舞台にしており、そこでは人間の体内にナノマシンを埋め込み、それらを「S.H.E.L.L.」と呼ばれるネットワークで管理することで、無病長寿が実現していた。
人間は「死」を望んだところで体内のナノマシンと「S.H.E.L.L.」によって生かされてしまうのである。
主人公の青年、大庭葉藏は、そんな社会の中で「人間らしさ」を取り戻そうと、反体制的な行動を取る。しかし、その際に体内のナノマシンが暴走し、身体が異形の怪物へと変貌する「ロスト化」という現象を引き起こしてしまう。
本作は、太宰治の『人間失格』を原案としながらも、時代背景や設定を一新し、ナノマシンや管理社会といったSFのトレンドを多く盛り込んだ内容になっているのが特徴だ。
しかし、その根底には確かに太宰治が問うた「人間」という言葉や概念への懐疑が継承されており、とりわけ私たちがこれから考えていくべき問題を孕んでいる。
太宰治が『人間失格』を著した1948年という時期は、まさに日本が戦争を終えた直後であった。この時期というのは、日本の文学界において「人間」という言葉を巡って盛んに議論がなされていた時でもあったのだ。
戦争というそれまで日本社会の中心にあったものがすっぽりと抜け落ちる激動の時代の中で、日本人文学者たちは「人間」というものがどのように変容していくのかに興味を抱いたのである。
太宰治と親交があった坂口安吾は、「戦争に負けたから堕ちるのではなく、人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。」の一節で知られる『堕落論』を著した。
その他にも多くの文学者がこの時期に「人間」についての論考を発表しており、とりわけ戦後の日本における「新しい人間像」にスポットが当たった。
そんな時期に、自らの作家人生の集大成であり、半自伝であり、そして遺書とも取れる作品として太宰治は『人間失格』を世に送り出し、「人間」という言葉・概念に疑念を呈した。
『人間失格』という作品は、大庭葉藏という男が自らを「人間失格だ。」と自認する半生を綴った3つの手記を「私」が読むという構造になっている。
葉藏という男は「人間」という存在を理解することができない。同書中の「第一の手記」にはこう綴られている。
つまり自分には、人間の営みというものが未だに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾し、呻吟し、発狂しかけた事さえあります。
(太宰治『人間失格』より)
太宰治は、葉藏を「人間」という言葉や概念と対立する存在であると位置づけることで、対比的に「人間」とは何かを暴き出そうとしていたように思える。
これ以降にも同書の中には、何度も「人間」という言葉が登場するが、これについて日本近代文学館専務理事も務める日本近代文学研究者の中島国彦氏が自身の論考の中で次のように語っている。
第一、「人間」の一員でありながら、その「人間」の概念をこんなふうに考え、行き場のないところで悩まなければならないというのは、これ以上の悲劇はないだろう。そして、それを描く作品の世界は、「人間」という言葉が使われれば使われる程、その概念が揺れているのが明らかになり、作品のリアリティを増すのである。
(中島国彦『「人間失格」への一視点「引用」の機能』より)
葉藏という人物は、常に「人間」という言葉・概念を疑い、そして揺れ動き続けていた。しかし彼が最後に暴き出したのは、自らが「人間」を失格しているということではないように思う。
むしろ誰しもが当たり前のように信じている「人間」という存在が果たして本当に存在するのか、自分たちは「人間」なのかという問いを徹底的に突き詰めたのが葉藏なのだ。
同書の「はしがき」の中で、「私」が葉藏のことを狂人と評するのだが、この姿勢が「私」という人物が盲目的に「人間」という存在を信じていることを明らかにし、葉藏と対比的に描写されているのが面白い。
このように太宰治の『人間失格』では、葉藏という人物の物語を描く中で「人間」という言葉の脆さを暴き出そうと努めたのである。
そして『HUMAN LOST 人間失格』は、科学技術が進歩し、社会構造を一変させるシンギュラリティに到達したとき、果たして「人間」という存在はどうなってしまうのかという問いを描こうとしていた。
その点で、時代を隔てているだけで、『人間失格』も同作を原案に据えた『HUMAN LOST 人間失格』もその中心にある問いは同じというわけだ。
本作の世界において、日本に生きる人間は無病長寿の実現により、「死」から半ば隔離された存在となっている。
自らの身体の動向を体内のナノマシンや「S.H.E.L.L.」に握られ、「死」と距離を置いた人類は果たして「人間」と呼べるものだろうか。本作の葉藏はまさにこの問いに直面しているのだ。
しかし、彼は「ロスト化」現象によって、「S.H.E.L.L.」のネットワークから排除され、昭和111年の社会における「人間」の定義から失格してしまう。失格した者の立場から、「人間」とは何かを問うという作品構造も実は原案である『人間失格』と一致している。
そして面白いのが本作に登場する「文明曲線」というモチーフだ。これはビッグデータを基にしてその後の社会の行く末を予測するものであり、作中では3つの曲線が登場する。
文明の再生を予測する本作のヒロイン柊美子の曲線、崩壊を予測する本作のヴィランである堀木正雄の曲線。3つ目が葉藏の作り出す曲線であり、彼の曲線は先の2人の曲線の中間に位置している。
柊美子の曲線は、言わば全ての人類が昭和111年の社会における「人間」の定義に適合する未来を表している。その一方で堀木正雄の曲線は全ての人類がその定義から失格する未来を表しているわけだ。
葉藏の曲線はその2つの間で、どちらと融合するでもなく揺れ動いている。これはまさに彼が「人間」という言葉・概念に対して疑念を抱いている様を可視化していると言えるだろう。
『HUMAN LOST 人間失格』は物語の果てに、「S.H.E.L.L.」を中心に構築されていた社会が半ば崩壊するという結末へと辿り着く。文明曲線はもはや形を定めることもなくなり、再生も崩壊も示さないままに蠢き続けている。
結果的に「人間」には失格も合格もなかったのだ。「人間」という言葉・概念は非常に脆いものであり、社会構造が変化すれば、簡単に変わってしまうものなのかもしれない。
パスカルはかつて「人間は考える葦である」という言葉を残したが、もし仮にAIの発達により私たちが思考を外部化する時代が訪れたならば、この言葉は成立し得なくなる。
太宰治の『人間失格』の「第三の手記」の最後にこんな記述がある。
いまは自分には、幸福も不幸もありません。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。
ただ、一さいは過ぎて行きます。
(太宰治『人間失格』より)
葉藏は時の流れだけがただ真理のように感じられるようなニヒリズムの中で、「所謂「人間」の世界に於いて」という記述を自らの手記に残し、「人間」という概念に対して感じている距離感を強調している。
彼はまさに自分は人間を失格したのだという虚無の境地にいるのだが、それでもなお自身の手記において「人間」という言葉に「所謂」という表現をつけてしまうほどに、その概念を疑っているのだ。
絶望し、無の境地に至っているようでいて、彼の中に宿る闘志はまだ消えていない。
一方の『HUMAN LOST 人間失格』のラストも、まさに葉藏がこれからも戦い続けていくのだという闘志を見せたところで幕切れとなる。
しかし、太宰治の『人間失格』と決定的に異なるのは、本作における葉藏には信じているものがあるということである。
それは他でもない柊美子が信じた未来であり、彼女が信じた「人間」の在り方だ。
「人間」とは結果ではない。だからこそ合格も失格も存在しない。
むしろ「人間」とは過程なのではないだろうかと思う。「人間」という概念に疑念を呈しつつも、こうありたいという理想に向かって自身を変化させ続けるその過程にこそ「人間らしさ」があるのではないか。
私たちの社会は科学技術の進歩により目まぐるしく変化しており、もはや10年後の生活も想像がつかない状態だ。
2045年にはシンギュラリティを迎え、人間の頭脳では予測できないような未来が訪れるという「2045年問題」という言葉も浮上している。
そんな激動の時代の中では、私たちが今当たり前のように信じている「人間」の在り方は、簡単に変わってしまうように思う。
そこで思考停止してしまうのではなく、「人間」という概念が脆いものであることを自覚し、常にその在り方を考え続けることがこれからの私たちの取るべき姿勢なのではないだろうか。
このメッセージを伝えるために、『HUMAN LOST 人間失格』が太宰治の『人間失格』をSF作品として現代に蘇らせたというのであれば、納得がいく。
Profile:ナガ
最新の映画やアニメのレビューをお届けする映画ブログ「ナガの映画の果てまで」の管理人。本作を別視点から考察した記事がこちら→【ネタバレあり】『HUMAN LOST』解説・考察:現代日本を反映させたSFとして蘇った人間失格
最新の映画やアニメのレビューをお届けする映画ブログ「ナガの映画の果てまで」の管理人。本作を別視点から考察した記事がこちら→【ネタバレあり】『HUMAN LOST』解説・考察:現代日本を反映させたSFとして蘇った人間失格
《参考文献》
・冲方丁『HUMAN LOST 人間失格』ノベライズ
・太宰治『人間失格』
・松本和也『太宰治『人間失格』を読み直す』
・中島国彦『「人間失格」への一視点「引用」の機能』
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