Ⓒ2019 「HELLO WORLD」製作委員会
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脱中心化する自己
ポストモダン性を検討するうえで、1つ重要な概念として挙げられるのが「脱中心性」である。
先ほどご紹介したダニエル・F・ガロイの『模造世界』でも、仮想人間と世界が3つのレイヤーに分かれているという構造により、主人公が自己という存在を信じられなくなっていくというプロセスが描かれる。
ポストモダン文学の代表者の1人であるトマス・ピンチョンの作品などでは顕著なこの傾向だが、統合失調症的に自己が分裂、断片化されていき、主体性やアイデンティティの喪失に至るものである。
先ほどの「大きな物語」の話と絡めるのであれば、「大きな物語」が確立された自己のことであり、逆にそこから解離し、分裂したことで生じる自己の断片が「小さな物語」ということになる。
『HELLO WORLD』の世界観は、先ほど挙げた『模造世界』のような多層世界的なものになっている。そして2037年の世界からやって来たナオミは2027年の世界の直実に「この世界はアルタラという巨大なシステムの中のデータだ。」と告げる。そして、2027年の世界で本作のヒロインである一行瑠璃を救うべく2人が奮闘するというのが基本的なストーリーだ。
『HELLO WORLD』において、本来あればこの自己の脱中心化の宿命を背負うのは、2027年の直実になるはずだ。 2037年の未来からやって来たナオミに「自分の存在はアルタラというシステム内におけるデータでしかない。」と告げられたのは他でもない彼だからだ。
しかし、本作で直実が自分の存在がデータでしかないということに思い悩むのは、中盤に2027年の世界が崩壊し始めた時のワンシーンだけだ。
では、本作において脱中心化の宿命を背負っていたのは誰なのかと言うと、それは2037年のナオミではないだろうか。
私がこの作品を見ていて、強く違和感を覚えたシーンが1つある。
ナオミは2027年の世界から、瑠璃を奪い去り、それによって2037年の脳死状態にある彼女を目覚めさせた。しかし、目覚めた彼女はナオミに対して「違う。あなたは堅書さんじゃない。」と告げるのだ。
なぜ? こんな発言が飛び出したのか? 逆になぜ2027年からやって来た直実の方が「堅書さん」であると認知されたのか? という疑問は尽きなかった。
ただ、ナオミが脱中心化の傾向にあったのだとしたら、納得がいくように思える。
本作のスピンオフ小説に『HELLO WORLD if ―-勘解由小路三鈴は世界で最初の失恋をする―』というものがある。これは映画版では直実と瑠璃の同級生として登場した三鈴という少女を主人公にしたアナザーストーリーだ。
この中で、直実たちが高校に入学する前に、三鈴が未来からやって来たミスズ(2047年の世界の三鈴)と共に、ナオミが2027年の世界に自分を送り込もうとして失敗した際にできる「幻影」と呼ばれるデータの残骸をデリートする任務に就く模様が描かれる。
映画の中でナオミは、アルタラ内へのダイブを繰り返すことで神経をすり減らし、更には杖なしでは歩けなくなるなどの障がいを負うに至った。
この時、彼は自分を「直実」たらしめる何かを見失っていったのではないかと推察できる。
そう考えると、スピンオフ小説の中で描かれた「幻影」という存在は、まさしく断片化し、分裂した「直実」の自己と言える。
こうして自分を「直実」たらしめる何かを喪失したナオミは、2027年の世界で非情な決意でもって2037年の世界の瑠璃の意識を取り戻そうとする。
しかし、そんな彼にも一瞬だけ本当の自己を思い出しかけた瞬間があった。
ナオミは古本市の前日にボヤで瑠璃の祖父のものであった古本たちが燃えてしまうことを知りながら、それを直実に知らせることはなかった。なぜならそれでは彼の筋書き通りにいかなくなるからだ。
その後に、直実が必死になってその本の一部を修復しようとするシーンがある。ここでナオミは葛藤しながらも、直実に手を差し伸べるのである。
誰かが悲しい思いをしている姿を見過ごせず、無意識に手を差し伸べてしまう天性の「優しさ」を持っている直実。それを喪失しかけていたナオミはここで一時的に分裂し、見失っていた自己を取り戻しかける。
ただ、その後は映画で描かれた通りで、結局彼はその「優しさ」を取り戻すには至らず、2027年の世界を犠牲にして自分の世界の瑠璃を救う決断をするのだ。
つまり、そうして2037年に戻ったナオミにはもはやそのアイデンティティも優しさも何もかもが残っていないのであり、瑠璃はそれを見抜いて「違う。あなたは堅書さんじゃない。」と告げたのだろう。
このような解離し、分裂する「自己」というモチーフは極めてポストモダン的と言える。
そして彼は、2027年からの直実の到来と共に、改心し、とにかく目の前の2人を助けようと奮闘し、それが結果として「直実らしい」行動だったが故に彼は2047年の現実世界で脳死状態となっていた自分とリンクすることができた。
自分という存在が信じられなくなる中で、それでも目の前のことに立ち向かおうとした行動が奇跡を起こしたのである。
これは、「大きな物語」としての確立した自己亡き後に、自分の今信じる行動を取るという「小さな物語」が生まれていったとも言えるのだ。
多層的な物語構造とプログラム
ポストモダンに分類される作品には、私たちの生きる世界とは隔離された世界の物語を描いたり、作品の中に多層的な構造を内包させたりすることが多い。
例えば、アメリカ同時多発テロが起きなかった世界線を描くポール・オースターの『闇の中の男』や現実とは隔離された幻想として「空洞地球」「砂漠都市シャンバラ」といった土地が登場するトマス・ピンチョンの『逆光』などは前者に分類される。
一方で、先ほどご紹介した『順列都市』と『模造世界』は典型的な後者の特徴を反映した作品だろう。
とりわけ『HELLO WORLD』は多層的な世界構造を内包した作品と言えるだろう。
1つには、2047年の現実世界と2037年・2027年の幻想世界(電脳世界)が『順列都市』で描かれる現実と幻想(ファンタジー)の関係に似ている点だ。もう1つは『模造世界』のようにどのレイヤーが現実なのかという点をぼやかし、登場人物に自分のいる世界がデータだと知覚させた点だ。
この点で既にポストモダン的な世界観の作品と言えるのだが、東浩紀氏の言説を参考にすると、もう1つ興味深いポイントが見えてくる。
東浩紀氏は自身の著書『動物化するポストモダン』の中でウェブの世界というものが、実にはポストモダン的と言えるのではないかと主張している。
ウェブというものは、私たちが見えているものの背後にコーディングによりソースコード(HTML)を記述してはじめて成立しているものである。
よってウェブには私たちが何気なく見ているレイヤーとその背後にソースコードのレイヤーがあり、これらが同時に「見えるもの」として両立しているのだ。
このウェブの特性を東浩紀氏はポストモダン的な世界構造に類似していると指摘したのだ。
話しを『HELLO WORLD』に戻すが、本作のタイトルはそもそもC言語を習う人が最初に触れるソースコードにちなんでつけられたタイトルだ。このプログラムも当然、C言語が背後にあり、それを解釈した結果として画面に「hello world」と表示することとなる。
このように『HELLO WORLD』という作品は、「見えるもの」がただ1つの真実とは限らないというポストモダン性をその世界観の根底から受け継いでいるのだ。
そして物語の終盤には、現実世界とアルタラの中の世界が独立した別世界として共存することとなる。
スピンオフ小説には次のような記述がある。
「つまり、あなたの世界は、新しい世界になったの。」
「新しい、世界・・・?」
「そう。機械の中の限定された情報としてではなく、現実と同等の規模と宇宙の運動を持った、正真正銘の新世界」
『HELLO WORLD if -勘解由小路三鈴は世界で最初の失恋をする―』より
つまり本作のラストを解釈するとすれば、世界が2つに分裂したことを示したということになる。
単一の世界が存在するという「大きな物語」が崩壊し、明確に隔離した世界(=「小さな物語」)が存在するという結末が示されたのだ。
ここまで『HELLO WORLD』が「大きな物語」を壊し「小さな物語」へと移行しようとするポストモダン性を秘めているといういくつかの根拠を示してきた。
〈後編〉では、いよいよこの根拠に基づき結論へと踏み込んでいく。
Profile:ナガ
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