Ⓒ2019 「HELLO WORLD」製作委員会
話題のアニメ映画『HELLO WORLD』がついに公開された。
監督を務めたのは、『時をかける少女』などを手掛けた細田守監督の下で助監督としても活躍し、『ソードアート・オンライン』シリーズ でもお馴染みの伊藤智彦だ。
本作はジャンルとしてはSF(サイエンス・フィクション)になるのだと思うが、一方で京都を舞台にしているということで、現実世界に存在しない空想上の事物が現実に介入してくるローファンタジー的な側面もある。そこで筆者としてはその間をとって本作をSF(サイエンス・ファンタジー)と分類している。
さて、本作が公開されてから数日が経過し、鑑賞した人のレビューが多数飛び交う中で、多く見られるのが「理解できなかった。」というものである。
かく言う筆者も最初にこの映画を鑑賞した時は、難解な内容を万人受け狙いのインターフェースを用いて、とんでもないスピード感で処理したという印象を受けた。端的に言うと、理解の範疇を超えていた。
そして、この作品を見ていて真っ先に違和感を抱いたのは、「新時代のアニメーション」「新機軸の作品」という「革新性」を売りにしながら、その物語がどこか見聞きした覚えのある設定や展開に満ちた、言わば「既視感のパッチワーク」のような作りになっている点だ。
ここで一度、発想を逆転させてみよう。
映画を1度見ただけの私がこれほどまでに違和感を覚えるコンセプトと作品性のズレに、製作陣が気づいていないなんてことがあるだろうか。
そうなると、この違和感には裏があると考えられる。
そこで、今回はこの青春SF(サイエンス・ファンタジー)たる『HELLO WORLD』に感じた違和感の裏にあるものを探りながら、自分なりの本作へのアンサーを模索してみようと思う。
『HELLO WORLD』に影響を与えた作品・作家たち
例えば、作中でグレッグ・イーガンの『順列都市』 に主人公の直実が言及する場面があるが、本作は多くの点でこの作品の影響を受けている。この作品については後に改めて触れていくこととする。
その他にも例を挙げていくとキリがなくなる。
冒頭のシーンで直実が背負っているリュックには「THE ONE」の文字と「There’s a difference between knowing the path and walking the path.」という言葉が印字されている。
これは映画『マトリックス』へのオマージュであり、「THE ONE(=救世主)」とは同作の主人公ネオのことを指している。また「There’s…」の言葉はネオの父親的存在であるモーフィアスが彼に対して発したセリフである(ちなみに日本語に訳すと「ただ道を知っていることと、道を歩いていることは別物である。」といった解釈になる。)。
他にも映像的な面で言うと、伊藤監督がかつて助監督を務めた『時をかける少女』や『サマーウォーズ』の影響が見られる 。例えば、主人公の直実が2027年の世界の崩壊に伴い、2037年の世界に向かって飛び込んでいくシーンは、『時をかける少女』の主人公である真琴がタイムリープをするべくプールの飛び込み台からジャンプするシーンを想起させる。
VRMMO的な物語であることを鑑みると『クリス・クロス』や『ソードアート・オンライン』シリーズの影響も当然あるだろう。
SF的な側面を鑑みると、フィリップ・K・ディック やダニエル・F・ガロイらの作品からの影響も垣間見える。前者は映画『ブレードランナー』の原作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を著者として知られている。一方のダニエル・F・ガロイは後にも紹介する『模造世界』という作品の著者としても知られ、この作品は『13F』や『あやつり糸の世界』といった映画の原作にもなっている。
いわゆるセカイ系的なテイストを匂わせる作劇や音楽の使い方などは、近年注目を集める新海誠の存在抜きに語ることはできないだろう。
こうして既存作品との類似点を挙げていくと無数に挙げられるわけで、そうなるとやはり本作が革新性を謳った作品でありながら、既視感のパッチワークになっている点には違和感を拭えないように思える。
既視感のパッチワーク=「大きな物語」
本作の物語や作品構造が非常に似ているのは、作中 でも登場したグレッグ・イーガンの『順列都市』やダニエル・F・ガロイの『模造世界』だ 。
『順列都市』は主人公の〈コピー〉が電脳世界で目覚め、自分が〈コピー〉であることを知覚し、自分自身を終了させてくれ(削除してくれ)と現実世界のオリジナルに懇願するという衝撃の場面から物語が始まる。
『模造世界』は電子的な仮想社会を作り、そこに仮想の人間を住まわせるという計画がスタートし、主人公自身が「仮想人間」だったという事実が明かされる中で繰り広げられる3つのレイヤーの世界を行き来する物語だ。
これらのサイバーパンクSFと呼ばれる作品は、その多くがポストモダンの考え方に裏打ちされていると言われている。
ポストモダンとは、一般的に、近代の進歩主義や主体性に重きを置く啓蒙主義を批判し、そこから脱却しようと試みる思想(運動)のことを指すとされる。
フランスの哲学者であるジャン=フランソワ・リオタールは、ポストモダン的状況を「西洋の近代文化と社会の権威付けを維持してきた『大きな物語』への懐疑」であると位置づけた。
「大きな物語」というのは、批評家である東浩紀氏によると、社会全体に対して圧力がかけられ無批判に共有されていた特定の物語のことだ 。
言い換えると、「大きな物語」というのは、社会の大多数の人々が共有し、当たり前のように信じていた価値観のことである。
そして、ポストモダンにおいてはその「大きな物語」への懐疑から「小さな物語」に価値を見出していく。言わばこれは、個人がそれぞれに信じられる幻想(ファンタジー)はあっても、社会を通底して絶対的に信じられる幻想はないという考え方だろう。
先ほど挙げた2つのサイバーパンクSF作品に共通しているのは、私たちがこれまで当たり前だと思ってきた概念や世界に疑問を投げかけ、そこから新しい何かを構築していくという方向性である。
では『HELLO WORLD』が、影響を受けたサイバーパンクSF作品たちと同様にポストモダン的なのであれば、本作における「既視感のパッチワーク」は「大きな物語」のことであると解釈できるという仮説が立てられないだろうか。
サイバーパンクSFやセカイ系と呼ばれる作品たち、そしてタイムリープものなどこれまでに幾度となく描かれてきた物語に対して、私たちが何となく共有意識として抱いている「イメージ」を敢えてそのまま作品に反映させる。
そしてそこからの脱構築(古い構造を破壊し、新たな構造を生成すること)と新世界創造というゴールを据えようとしたのであれば、本作が終盤の終盤に至るまで物語的にも、映像的にも、音楽的にも既視感に満ちていることに納得がいく。
では、本作は本当にポストモダン的と言えるのだろうか?
続く中編では、映画『HELLO WORLD』のポストモダン性を検討していくこととする。
Profile:ナガ
最新の映画やアニメのレビューをお届けする映画ブログ「ナガの映画の果てまで」の管理人。本家では、鑑賞後のレビューが掲載されています!
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