「族長! 族長! 族長!」
荒木飛呂彦原作の有名漫画『ジョジョの奇妙な冒険』第1部には、太陽の民「アステカ」の族長が石仮面を被り、少女の胸にナイフを突き立てるシーンがあります。
物語はもちろんフィクションですが、古代アステカでは実際に生贄の儀式を含む凄惨な祭が行われており、時には生贄の肉を食べることもありました。今回はそんなアステカの怖すぎる祭をまとめてご紹介しましょう。
目次
祭の前に、アステカってどんな国?
アステカってどんな国だっけ、そもそもどこにあるの? ――という方のために、まずは簡単な歴史をご紹介しましょう。
*アステカ基本情報*
・時代:1325年~1521年
・場所:メキシコ中央高原
・王都:テノチティトラン(現在のメキシコ首都メキシコ・シティー)
・特徴:他の都市国家と「3市同盟」を組み周辺都市へ戦争を仕掛け、捕虜を生贄の儀式に利用した。1521年、スペイン人のコルテスに征服された。
1325年、アステカ人たちはメキシコ中央高原にあるテスココ湖を埋め立て水上都市テノチティトラン(現在のメキシコの首都メキシコ・シティー)を建設します。こうして誕生したアステカは、テスココとトラコパンというふたつの都市国家と「3市同盟」を組むと、周辺国家に戦争を仕掛け、メキシコ中央高原全体へと勢力を広げていきました。王都テノチティトランの人口は30万人に達し、人々の生活水準はヨーロッパのどの都市よりも高かったといいます。
しかし、その繁栄の裏には絶え間ない戦争と血なまぐさい生贄の儀式がありました。生贄の儀式は当時、メソアメリカ各地でよく行われていたのですが、アステカでは並み外れて大規模に行われていたのです。生贄に捧げられたのは、周辺諸国から戦争で集められた大量の捕虜たちでした。そのため、周辺の都市国家の民衆の中にはアステカに恨みを抱く人が増えていきます。
こうした事情を利用し、アステカを征服しようと考えた者がいました。スペイン人のエルナン・コルテスです。彼はアステカに強く反発する周辺の先住民集団を味方につけると、1521年、激戦の末に王都テノチティトランを占領します。こうしてアステカの繁栄は終焉を迎えたのです。
アステカで使われていたふたつの暦と祭の関係
では、アステカの人々はどんな時に生贄の儀式を行っていたのでしょう? その答えは彼らが使っていた暦にあります。
アステカでは「シウポワリ(太陽暦)」と「トナルポワリ(祭祀暦)」というふたつの暦を使用していました。
・1年=365日(1ヶ月=20日×18ヶ月+5日)
・農耕サイクルに合致した暦で、毎月、その月の農耕に関する祭祀が行われた。
→祭祀の度に生贄の儀式を実施!
・1年=260日(1~13の数字と20の絵文字の組み合わせでできている)
・宗教儀式用の暦で、その日の全ての出来事の吉凶が予測できると考えられていた。
→占いで「凶」となったら生贄の儀式を実施し運命を回避!
このように、アステカではふたつの暦それぞれで生贄の儀式を必要としたため、とても頻繁に儀式が行われていたのです。
アステカの怖すぎる祭①子どもを生贄にした祭
ここからはいよいよ、アステカで行われていた怖すぎる祭をまとめてご紹介しましょう。
・時期:シウポワリ暦第1の月(現在の2月14日~3月5日)
・目的:神々に雨乞いと五穀豊穣を祈ること。
・内容:山頂で大勢の子どもを生贄に捧げて雨乞いをし、祭の後にその死体を食べる。大勢の捕虜も生贄に捧げて五穀豊穣を祈願する。
最初にご紹介するのはシウポワリ暦第1の月に行われる祭りです。この祭りではまず、神殿や各家庭に柱を立てて儀式用の旗で飾り、供物を捧げます。
祭で生贄に捧げられたのは大勢の子どもたちと捕虜です。
子どもの中でも、頭につむじがふたつある乳飲み子が最適とされ、両親から買い取って着飾らせると、輿に乗せて山頂まで登り、そこで胸を切り裂いて心臓を取り出して神に捧げました。この時、子どもが泣き叫べば叫ぶほど雨が降ると信じられていました。
捕虜たちの方は大きな円形の石版に縛り付けられ、木製の剣と盾を持たされて完全武装のアステカの戦士4人と戦わされます。当然捕虜は負け、4人の戦士に両手両足を押さえ付けられると、神官に心臓をえぐり出されました。
◎関連記事
生まれ変わり、生贄の儀式 ケルトの人々の信仰とは?
アステカの怖すぎる祭②生贄の皮を剥ぐ祭
続いてご紹介する祭は「人の皮剥ぎ」を意味する第2の月に行われます。
・時期:シウポワリ暦第2の月(現在の3月6日~25日)
・目的:豊穣の神シペ・トテックに五穀豊穣を祈ること。
・内容:捕虜の心臓をえぐり、死体の生皮を剥ぎ、バラバラに切断して食用にする。剥いだ生皮を身にまとって五穀豊穣を祈願する。
豊穣神シペ・トテックは五穀豊穣の見返りとして人身御供を要求する神です。
シペ・トテックとは「生皮を剥がれた者」という意味で、その名の通り、儀式では生贄の捕虜の心臓をえぐり出した後、死体を神殿の階段から投げ落とし、生皮を剥いだ上でバラバラに切断し、トウモロコシと一緒に煮て食べます。さらに生皮を身にまとい、五穀豊穣を祈願しました。
ちなみにこの時人々が身にまとった生皮は、翌月の祭で神殿に奉納されます。奉納まで20日以上もあるため耐え難い程の悪臭が漂い、奉納後は臭いが染みついた身体を洗う必要がありました。
アステカの怖すぎる祭③生贄を火攻めにする祭
第10の月に行われた祭は、生贄に想像を絶する苦しみを味わわせるものでした。
・時期:シウポワリ暦第10の月(現在の8月13日~9月1日)
・目的:火の神ウェウェテオトルや商業の神ヤカテクトリに感謝する。
・内容:生贄の捕虜を火の中に投げ入れ、死ぬ直前に助け出して心臓をえぐり出す。
この祭は火の神に感謝を捧げる祭のため、生贄の捕虜たちは燃えさかる火の中に投げ込まれます。死ぬ直前に助け出されますが、それは心臓をえぐり出されるためでした。
人々はその様子を見物し、歌ったり踊ったりしたといわれています。
アステカの怖すぎる祭④52年に1度の大祭
最後にご紹介する祭は、ふたつの暦で同じ日が巡ってくる52年目の年に行われます。アステカの人々にとって、この年はひとつの周期が終わり新しい周期が始まる大切な年で、祭も大々的に開催されました。
・時期:52年に1度、ふたつの暦で同じ日が巡ってくる年
・目的:新しい周期(世界)の再生
・内容:20日間、断食と禁欲の日々を送る。深夜、聖なる丘で神官が生贄の胸の上で火を起こして「新しい火」をともし、生贄の心臓をえぐり出して焚き火の中に投じる。
祭が開かれる20日間、アステカの人々は火を消し、断食と禁欲の日々を送ります。
神官たちは深夜になると神々に扮し、王都テノチティトランからウィシャチトランと呼ばれる聖なる丘へと向かいました。夜空に「ママルワストリ(火起こしの錐)」と呼ばれる星座が現れる頃、生贄を仰向けに寝かせてその胸の上で錐と木を使い「新しい火」を起こします。さらに生贄の心臓をえぐり出し、たき火の中へと投げ入れました。
「新しい火」はその後、走者たちによって王都へと運ばれます。この一連の儀式はアステカの人々にとって、ひとつの周期(世界)の死と再生を象徴するものでした。
アステカで行われていた多くの祭は、現代人からみると恐ろしく野蛮なもののように思えます。しかし当時の人々にとってはどれも欠かすことのできない大切なものでした。それにしてもトウモロコシと一緒に煮た生贄の味はどのようなものだったのでしょう……。ちょっと想像したくありません。
◎参考書籍
マヤ・アステカの神々
著者:土方 美雄