夏目漱石から伊佐坂先生まで、長い間作家は計画通りに進まない原稿と戦ってきたーー
これは、近年注目の「行動経済学」の観点より、なぜ執筆期間は延びてしまうのかについて考察した真面目なコラムだ(……と思って読むとがっかりする。たぶん)。
今のところそんな依頼はまったく来ていないのだが、もし「若い読者さんたちに、『これだけは読んでおいてほしい』というおすすめの本を教えてください」と聞かれたら、これとこれとこれを挙げようかな、などと密かに妄想している。(※1)
その中の1タイトルが、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマン博士の「ファスト&スロー」(※2)だったりする。多数の書籍に内容が引用されていたり、影響は多大で広い分野に及んでいる。この本に登場する「イケメンの候補者とそうでない候補者がならんだとき、実績や資質は同じでもイケメンの方に投票しちゃう説(ハロー効果)」なんかは、みなさんも聞いたことがあるかもしれない。
『ファスト&スロー(上)』(ハヤカワ・ノンフィクション文庫) |
さて、この著者であるカーネマン博士のチームは、今より40年以上前に、イスラエル政府より高校生向けの心理学の教科書を作るよう依頼を受けた。教科書づくりは順調にすすみ、第二章まで書き終わった時点(1年半ほどたった頃)でチームにこんなアンケートをとった。
Q:「この教科書はどれくらいで書き終わると思う?」
A:「あと1年半ぐらいで終わるんじゃね?」
「いや、もうちょいかかるでしょ。2年半ぐらい?」
チームの平均回答は2年。しかし、実際教科書が完成したのはそれから8年後。しかも、その教科書は高校生たちに使われることなく、お蔵入りになったそうな。
別の心理学の実験でも、こんなものがある。カナダのロジャー・ビューラー教授によるものだ。
教授は37人の学生に対し、あるテーマで卒業論文を書くよう課題を出し、提出までにかかる時間を予想してもらった。
学生たちの平均予想は33.9日。
実際にかかった日数の平均は、予想を大幅に上回る55.5日。
……もしかしたら予想より早くちゃっちゃと提出した学生もいたのかもしれないけど、まぁまぁの遅延っぷりだ。
このように、「妨害要素を低めに見積もって、プロジェクトの進捗を楽観視する」ことをカーネマン博士は「計画の錯誤」と著書で名付けた。「某RPGの新作はたいてい発売が延期する」とか「大御所ビジュアル系バンドのニューアルバムは『今年中に出る』と10年前から言われてる」とかいうのも、計画の錯誤の一例かもしれない。
で、実は(も何もタイトルでバレバレだけど)これを書いている筏田も計画を錯誤しまくってる一人だ。おかげさまで商業デビューより今年の9月でまる3年。執筆依頼もそこそこいただいているのだが、現在のところ流通にのっているのは単行本2冊と文庫本6冊(うち2冊は単行本の文庫化)で、デビュー後に書き下ろしはたったの2冊だ。編集さんたちにも「じゃぁ来年の今頃から書き始めます」とか、「今書いてるのがもうすぐ終わるので、そしたら連絡します」などと調子のいいことを言っては「すみませんまだ書き終わってません……」などと謝罪のメールを送り、「ゲン オクルニ オヨバズ」(※3)という電報が我が家にとどいていないか、冷や汗をかく毎日である。
なぜそんなに遅れているのか、具体的に見てみよう。今年2月に出版した「ヘタレな僕はNOと言えない」は去年の3月より書きはじめ、初稿を上げたのが11月下旬、そこから第二稿、最終稿でブラッシュアップをし、脱稿したのがクリスマスの翌日だ。当初の計画だと、夏ごろには初稿を完成させ、あとは締切まで余裕をぶちかましながら編集氏の指示を仰ぎつつ、次の本にとりかかっている予定だった。これは、追加取材のたびに大幅に書き直しをしていたことが、遅れた原因だと推測される。
ヘタレな僕はノーと言えない (幻冬舎文庫) |
また、先日ようやく初稿を提出したジュニアノベルも、指定された文字数が少ないことから、ライト文芸よりも早く書き終わるだろうと予測していた。これもサッカリンナトリウム並に甘かった。主な対象読者は小中学生だ。「葛藤」「狼狽」「獺祭」なんて難しい言葉は使えないので、代替となる文章を編み出そうとするたびに筆が止まる。そもそも「獺祭」なんてジュニアノベルに出す必要ねーだろ。はい、そのとおりです。
前述のカーネマン博士によると、計画の錯誤が起こるのは「ベストケースを想定するから」らしいのだが、これも見事に自分に当てはまっている。
代表作の「君に恋をするなんて、ありえないはずだった」は本編(靖貴が千葉を離れるまで)のWEB投稿の記録が、第一話が2012年11月19日で、最終話UPは翌年3月25日となっている。当時のスタイルは書いて出しで、ストックは一つもなかったので、4ヶ月ちょっとで文庫本1冊と2/3ほどの文量を書き上げていることになる。当時は休職中で他にやることがなかったとはいえ、かなりのスピードだ。「静かの海」も2011年6月下旬から書き始め、次の年の7月に文庫2冊分を書き終えている。このときは週4で働いていた。
君に恋をするなんて、ありえないはずだった (宝島社文庫) |
週に半分しか出勤していない現在よりも、当然時間の余裕は少なかったはずだ。この2つを基準に考えて「3ヶ月ぐらいで1冊書けるかな~」などとほいほい依頼を引き受けてしまい、あとで泣きを見る羽目になってしまった。
ただ、「静かの海」や「ありえない」は学生時代からあたためていた話であり、言ってみれば構想にじゅうウン年かけていたのだ。ゼロからひねり出した「ヘタレ」や今度出る予定の新作とはまた違う。つまり話のイメージが細部まで固まっていないと、執筆期間は延びやすいということだろう。ていうか、心理や行動が専門のカーネマン先生ですら、計画どおりに事を運べなかったのに、いわんや一作家をや。執筆に想定外の時間がかかったとして、致し方のないこと、と言えなくもない。
……というわけで、これを読んでくれてるかもしれない筏田の担当さま、納品が当初の約束より遅くなると思いますが、どうぞお許しくださいませ。(※4)
(※1…あとは「銃・病原菌・鉄」とか「見仏記」とか。)
(※2…文字びっしりの文庫本で上下あわせて800ページ超。でも1/4ぐらいは参考文献と注釈と謝辞。アホの筏田にも読めたので、チャレンジしてみよう!)
(※3…藤子不二雄A先生の不朽の名作「まんが道」より。涙なくては読めないシーン。)
(※4…このコラムは依頼が来た次の日に書き上げたぞ! わはは! やればできる子! てなわけで、この手のコラムの執筆依頼もお待ちしております♡)
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作家と学ぶ異類婚姻譚 ~東雲佑の取材記 〈女化紀行 後編〉~
*著者紹介*
筏田かつら。シリーズ累計30万部を超える『君に恋をするなんて、ありえないはずだった』『君に恋をするなんて、ありえないはずだった そして、卒業』『君に恋をしただけじゃ、何も変わらないはずだった』をはじめ、『静かの海 その切ない恋心を、月だけが見ていた』上下巻(すべて宝島社)など、初々しい恋模様を描く。近著では、年上の美女とヘタレ男子の恋と仕事の物語『ヘタレな僕はノーと言えない』(幻冬舎)がある。
筏田かつら。シリーズ累計30万部を超える『君に恋をするなんて、ありえないはずだった』『君に恋をするなんて、ありえないはずだった そして、卒業』『君に恋をしただけじゃ、何も変わらないはずだった』をはじめ、『静かの海 その切ない恋心を、月だけが見ていた』上下巻(すべて宝島社)など、初々しい恋模様を描く。近著では、年上の美女とヘタレ男子の恋と仕事の物語『ヘタレな僕はノーと言えない』(幻冬舎)がある。