(C)2019「天気の子」製作委員会 |
書き手:ナガ
2016年に映画『君の名は。』で一躍有名になった新海誠。そんな彼の最新作『天気の子』が7月19日より全国で公開されている。大ヒットした作品の直後の作品ということもあり、このまま商業路線を突き進むのか、自身の作家性を重んじる方向に回帰するのかには筆者も注目していた。鑑賞した今、はっきり言えるのは新海誠が選んだのは、後者だったということだ。
『天気の子』は新海監督らしい懐かしいファンタジー色を残している。とりわけ『雲の向こう、約束の場所』や彼のフィルモグラフィーの中でも比較的評価の低い『星を追う子供』に近い内容である。
©Makoto Shinkai/ CoMix Wave Films |
一方で、印象的なのは、警察や法律、社会制度、家族の問題といったファンタジーというジャンルとは相反するようなリアリスティックな要素が散りばめられている点だ。前作『君の名は。』では変電所を爆発させるなどのある種の「犯罪」を犯しながらも、あくまでファンタジーだからと済ませてしまうような側面があった。その反動とも言える形で、今回はその真逆を追求しているのだ。
(C)2019「天気の子」製作委員会
なぜファンタジーというジャンルを志向しながら、それとは相いれない現実的な障害を主人公の帆高に課すという手法を取ったのだろうか。
筆者はここにこそ今回新海監督が描こうとした何かがあると考えた。
それを考えるにあたって大きなヒントになったのが、本作の冒頭のシーンでちらりと映りこむサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(※)だった。これは学校や家族に嫌気が差した帆高が東京で1人途方に暮れている時に読んでいた小説だ。
『ライ麦畑でつかまえて』 (白水Uブックス) |
この作品はホールデンという主人公の少年が4つ目の学校を退学処分になった後に、3日間にわたってマンハッタンを放浪する物語である。16歳のホールデンの大人の建前や欺瞞に対する反感と子供の無垢さと純粋さに対する信奉をテーマに据えた作品でもある。学校や周囲の人間関係に嫌気が差して家出をしたという表面的なところだけを見ても、ホールデンの姿が『天気の子』の帆高に重なることは自明だろう。
ただ本作で新海監督が描こうとしたものを考えていくと、この『ライ麦畑でつかまえて』という小説はもっと深いところでリンクしているように思えるのだ。
RADWIMPSの歌う『天気の子』の挿入歌『愛にできることはまだあるかい』にはこんな歌詞が登場する。
「あきらめたものと賢いものだけが勝者の時代にどこで息を吸う」
(RADWINPS『愛にできることはまだあるかい』)
この一節はまさに『ライ麦畑でつかまえて』のホールデンの心情にも対応しているように思える。純粋無垢なファンタジーを信じているような子供は、建前と欺瞞を駆使する大人の世界に入ることができず、排除されてしまう。社会はそんな者たちに救いの手を差しのべようとするほど優しくない。つまり純粋無垢を信じることを止められず「社会=ライ麦畑」からドロップアウトしそうになる自分を助けて欲しいとホールデンは叫んでいるのだ。
『天気の子』における帆高もまさしくそうではないか。学校や家族が嫌になり家出をした彼は東京で厳しい現実に直面する。誰も手を差し伸べてくれない中で、誰かに何かに救って欲しいと叫んでいる。東京の無機質な風景とそこに勢いよく降り注ぐ雨の風景は、そんな帆高の孤独を鮮明に浮かび上がらせる。
そんな時に手を差し伸べてくれた陽菜も同じく「はみ出し者」だった。弟と2人暮らしで、学校にも通わずバイトに明け暮れる彼女は社会から振り落とされそうな存在だ。もっと言うと、彼女は「天気を操る」という現実離れした力をもった存在だ。帆高はそんな彼女に共鳴し、共に過ごすようになる。雨が降り続く寒々とした東京の片隅で2人の「はみ出し者」はささやかな幸せを享受する。
しかし、彼女は突然彼の前から姿を消し、ファンタジーの世界に囚われてしまう。そして帆高もまた警察の手によって囚われてしまう。2人はファンタジーとリアルに引き裂かれるわけだ。するとどうだろうか。雨が降り続いた東京は、突然快晴へと転じていくではないか。
(C)2019「天気の子」製作委員会
これではまるで「はみ出し者」をドロップアウトさせることで、社会は美しくなるのだと言わんばかりではないか。私たちの「社会=ライ麦畑」はそういう「はみ出し者」を排除することで豊かさと均衡を保ってきたとでも言いたげなのである。
しかし、そこで新海監督は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」になろうとするのだ。彼は「セカイ」を犠牲にしてでも、その純粋な帆高という少年を「つかまえ」、全力で肯定することで、「社会=ライ麦畑」に居場所を与えてあげようとする。
大人たちはファンタジーを信じない。それでも純粋にファンタジーを信じ、行動を起こそうとする帆高の姿が心を動かし、そして1人の少女を救う。
本作の終盤の3年が経過した世界で、主人公は18歳(世間で大人と呼ばれる歳)になっている。周囲の大人はファンタジーを信じるのはやめて、現実を見ろ、理性的になれと彼に言う。3年前に警察を制してまで彼の行動を後押しした須賀でさえもこんなセリフを告げている。
「妄想なんかしてねえで、現実を見ろよ現実を。いいか、若い奴は勘違いしてるけど、自分の内側なんかだらだら眺めててもそこにはなんにもねえの。大事なことは全部外側にあるの。自分を見てねえで人を見ろよ。」
(『天気の子』(角川文庫))
なるほど面白い。ここで本作においてK&Aプランニングで帆高の先輩として働いていた夏美が就活生だったという設定も繋がってくるように思える。社会に受け入れられるには、自分の外側にある他者から認められ、「受け入れられる」必要がある。就活をするというのは、社会の枠組みに組み込まれ、「大人」になろうとするということだ。つまり「大人」になるとは、自分の存在を外側から認められることであり、社会に「大丈夫だ」と認めてもらうことなのだ。
一方で、帆高は自分が世界を変えたという選択を肯定し、陽菜と生きる未来を改めて選択する。彼は大人のリアルに染まらない。他人がどうとか、大人はどうとかは関係ないのだ。ただ今ここにいる自分と、目の前に陽菜がいることだけがこの世界の真実だと彼は知っている。外側から認められなくとも2人は内側からこみあげてくる全力の「大丈夫」でお互いを受け入れ合うのだ。
『ライ麦畑でつかまえて』の終盤に、回転木馬に乗った妹のフィービーがぐるぐる回り続けるのを見て、ホールデンが「なんだかやみくもに幸福な気持ち」になり、そして声をあげて泣きだしそうになるという一幕がある。
この時ホールデンが感じていた思いは、まさに『天気の子』において帆高が陽菜に再会したあの瞬間に感じた思いに重なるだろう。
回転木馬が意味するのはある種の永続性であり、そこに乗るフィービーが意味するのは、不変の純真さと無垢さでもある。帆高は世界がどれだけ変わっても、変わらずにそこにいてくれた陽菜の姿に「幸福」な気持ちになり、思わず涙が止まらなくなるのである。
きっと彼らはお互いがお互いの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」になれたのだ。
私たちの社会は、今どんどんと「弱者」を見て見ぬふりをし、切り捨てる方向へと進んでいるように思える。1人の「弱者」を切り捨てることで世界を救えるのなら、それでいいではないかと大人は平気で口にする。少数を切って大多数を救うという大人の「リアル」は合理的であり、きっと正しい。全員を「幸せ」にするなんてファンタジーは現実味に欠けるのだ。
しかし、そんな時代だからこそ世界を犠牲にして愛するたった1人を救うなんていうあまりにも純粋で子供染みた「ファンタジー」があっても良いじゃないかと私は思うのだ。
愛に世界を変える力はない。それでも愛には1人の少女を救う力がある。
こんな時代にも「愛などというファンタジー」にまだできることがあったのだと、新海誠監督は『天気の子』という作品を通じて教えてくれているような気がした。
※『ライ麦畑でつかまえて』
世界中で読まれている青春小説の名作。原題は『The Catcher in the Rye』。
映画『天気の子』公式サイト
https://tenkinoko.com/