中世ヨーロッパといえば騎士の時代。騎士たちはどのような暮らしをし、何を見て何を考え、どんな人生を送っていたのでしょう?
このシリーズでは、1165年にフランスに誕生した架空の騎士ジェラールを案内人に、中世ヨーロッパと騎士の姿をわかりやすくご紹介していきます。
最終回となる第15回目のテーマは、「十字軍と騎士修道会」です!
目次
十字軍遠征と騎士修道会
騎士としてフランス国王フィリップ2世に仕えるジェラールは、1189年、第3回十字軍に参加することとなりました。
「十字軍」とは、当時拡大を続けていたイスラム勢力から東方のキリスト教徒を守り、聖地エルサレムとそこへ向かう巡礼者を保護することを目的に行われた遠征です。1096年の第1回十字軍からローマ教皇に公認されたものだけでも合計8回行われ、西欧各国の諸侯や騎士のみならず、農民など一般民衆も参加する熱狂的な運動となりました。
第3回十字軍で、私は国王とともにマルセイユを出港し、ジェノヴァなどを経由してパレスティナのアッコに向かいました。激しい戦いの結果、アッコの地をイスラム勢力から解放できたんですよ!
こうした十字軍の戦いの中で誕生し、十字軍遠征の主力にもなったのが「騎士修道会」です。彼らは聖職者の資格を持ちながら騎士としても戦った武装集団で、巡礼者の保護と救護を任務としていました。
騎士修道会の中から、有名なものをみっつご紹介しましょう。「聖ヨハネ騎士団」「テンプル騎士団」「ドイツ騎士団」です。
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テンプル騎士団
最初にご紹介するのは「テンプル騎士団」です。
【テンプル騎士団】
- 別名「聖堂騎士団」「神殿騎士団」
- 主な活動拠点:パレスティナ、キュプロス島、パリ
- 服装:戦闘の時は赤い十字の付いた白いマント
1096年から行われた第1回十字軍で、遠征に参加した騎士たちはパレスティナに十字軍国家を建設すると、大挙して引き揚げていきました。聖地や巡礼者の保護は残された十字軍国家が担うようになりますが、その軍事力は貧弱で、治安維持などとても務まりません。
そこに登場したのがシャンパーニュ地方出身の年老いた騎士ユーグ・ド・パイエンです。彼は8人の仲間とともに「キリストの貧しき騎士」と名乗ると、巡礼者に付き添い、護衛をするようになりました。
この活動はやがてエルサレム王に支援されるようになり、王はエルサレム市内のソロモンの神殿跡に彼らを住まわせる許可を出します。こうして彼らは「テンプル(神殿・聖堂)騎士団」と呼ばれるようになりました。
テンプル騎士団は次第に力を持ち、西欧各地に寄進された領地の経営や東西貿易、金融業なども行うようになります。莫大な富を持ち、教皇直属であるため免税権も与えられていた彼らは、西欧諸国の王侯から脅威だと思われるようになりました。
こうして1307年、フランス国王フィリップ4世によってパリのテンプル騎士団本部や国内支部が急襲され、騎士団は崩壊してしまいます。総長ら数百人が火刑にされ、生き残った騎士たちは聖ヨハネ騎士団に移るか修道院に入ることとなりました。
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聖ヨハネ騎士団
続いては、テンプル騎士団の生き残り騎士たちも参加した「聖ヨハネ騎士団」をご紹介しましょう。
【聖ヨハネ騎士団】
- 正式名称は「エルサレム洗礼者ヨハネ看護(病院)騎士修道会」
- 別名「ホスピタル(病院)騎士団」
- 主な活動拠点:パレスティナ、キュプロス島、ロードス島、マルタ島
- 服装:普段は白地の十字の付いた黒いマント。戦闘の時は赤い十字のマント
「聖ヨハネ騎士団」は、第1回十字軍遠征が始まるより前の1070年頃、イタリア商人が聖墳墓教会近くに救護所を設けたことをきっかけに誕生し、各地に病院を建設した騎士団です。この由来から、別名「ホスピタル騎士団」とも呼ばれています。
十字軍遠征では最前線に立ち、各地の要衝に建つ城の守備を担当しました。トリポリの北東にある「騎士の城」クラク・デ・シュヴァリエもそのひとつです。
13世紀末に十字軍勢力がパレスティナを追われた後は、キュプロス島やロードス島を拠点とし、何度もイスラム勢力の攻撃を撃退します。しかし1522年、オスマン帝国の強大な軍事力の前についに開城し、島を去ることとなりました。
その後、神聖ローマ皇帝からマルタ島を与えられ、軍事力を捨てて医療と慈善を行う団体となります。現在ではローマに本部があり、「マルタ騎士団」と呼ばれています。
ドイツ騎士団
最後にご紹介するのは「ドイツ騎士団」です。
【ドイツ騎士団】
- 主な活動拠点:パレスティナ、ハンガリー
- 服装:黒十字を付けた白マント
「ドイツ騎士団」はエルサレムにあったドイツ人の病院がもととなり誕生した騎士修道会です。当初は他の騎士修道会と同じように、パレスティナで十字軍運動を行っていましたが、1211年、ハンガリー王に招かれてハンガリーに入植します。
以降、彼らはスラヴ人やバルト人への布教(改宗)を行い、各地に入植地や都市を建設しました。しかし次第に勢力を失い、1525年に解体してしまいます。
騎士修道会は十字軍運動とともに誕生し勢力を振るいましたが、結局は力を失い、解体したり違う組織になってしまいました。いやはや、歴史の流れを感じますね
第3回十字軍から帰国後、ジェラールは長兄から領地を相続し、フランス国王フィリップ2世のもと、ノルマンディー地方でのイングランドとの戦いに何度も参戦します。
ジェラールはまた、妻との間に何人もの子どもももうけました。その中にはもしかしたら、将来彼の跡を継ぎ騎士になる者もいるかもしれません。
以上が大まかな私の人生です。私を通してお伝えした中世ヨーロッパの騎士の姿は、皆さんの予想通りだったでしょうか? 最後までのご愛読ありがとうございました
◎中世騎士物語
1.〈中世時代の暦〉
2.〈洗礼と宴会〉
3.〈階級社会〉
4.〈出陣風景〉
5.〈騎士と従士制〉
6.〈騎士の鎧〉
7.〈騎士になるための教育〉
8.〈修道院〉
9.〈領地〉
10.〈開墾〉
11.〈城〉
12.〈騎士道〉
13.〈宮廷〉
14.〈トーナメント〉