イラスト:鈴木康士
題名は知ってる文学作品 オススメされたから読んでみよう
ぼく:ラノベ編集者。理工系の大学からSEを経てラノベ編集者に、というめずらしい経歴の持ち主。ラノベは大好きでジャンルに関係なく乱読していたが、いわゆる「名作」や「文豪」にニガテ感があり、ほとんど読まずに過ごしてきた。
ぱん太:パンタポルタのマスコットにして本コラムのナビゲーター。読書に対して広く深い愛情を持つパンダっぽい生き物で、月1回文学オンチの『ぼく』とプチ読書会を開催している。作品への愛ゆえにマスコットとしての本分を忘れることもあるが、本人は気付いていない。
坂口安吾『桜の森の満開の下』
『桜の森の満開の下』(講談社文芸文庫) |
ウチの会社のそばの川岸には古くからの桜並木があり、季節になると大勢の桜見客で賑わっている。
帰りの駅までの道のりをすこし遠回りするだけで夜桜見物ができるので、毎年この時期は退社時間がちょっと楽しみになる。
この時期だけ設置される町内会の安っぽいちょうちんの明かりに照らされた桜にはなんともいえない風情があって、仕事に疲れた心をやさしくしてくれる気がする。
今日も桜を見ながら帰ろう。
そう思って川沿いを通る道に向かうと、桜並木のある遊歩道はビニールシートで埋まっており、コンビニで買ったとおぼしき缶ビールとおつまみでできあがった人であふれていた。
ありゃ、今年はずいぶんと人が多いな。
去年はここまでじゃなかったのに。
目の前の騒ぎに何となく興をそがれ、夜桜見物をあきらめて、いつもより路地をもう一本遠回りする。
桜並木の喧噪を背に、これまで通ったことのない暗い道を通って帰ることにした。
いつしか、ぼくは住宅街に迷い込んでいた。
まばらな街灯を頼りに入り組んだ路地を進んでいくと、やがて小学校の校庭に突き当たった。
だれもいない校舎には、避難口の案内灯だけが薄緑に光っている。
都内とは思えぬ暗がりにとっぷりと漬かり、昼間子供たちで賑わっているであろう校舎は、来る者を拒みさえするような不思議な雰囲気に満たされていた。
そんな人影のない校舎を眺めながら、校庭の金網塀に沿って角を曲がると、暗い路地の真ん中に、突然ぱあっとうすいピンクの色彩があふれだした。
学校の裏門に植えられた桜が、門扉の上の灯りに照らし出されていたのだ。
真っ暗な道に覆い被さるように枝を伸ばした桜の樹は、水銀灯の白い光に薄く輝き、風もないのにゆっくりと揺れているようにも見える。
圧倒的な美しさ。
なのに、得体の知れぬなにかに呼ばれているような気がして――
急に怖くなったぼくは、あわてていま来た道を引き返した。
***
ていうことがあってさ。
綺麗すぎるものって突然怖くなることもあるんだね。
ぱん太「へぇー! それ面白いなあ! 迷い込んだ暗い道の先に桜が待ってた、なんていうとちょっとロマンチックな感じもするけど」
たしかにすごく綺麗だったんだけど、そのときは、ホラー映画の主人公が「おかしい」と思いながら怪異に踏み込んでいくシーンを思い出しちゃってさ。
妙に怖くなって、路地を進む気になれなかったんだよね。
ぱん太「ちょっとわかる。夜桜って綺麗なんだけど、妙に怖く見えるときがあるよね。
桜にまつわる話には怖い話も多いし、文学作品でも『大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした』なんて書いてる人もいるし」
え、そうなの?
ぱん太「桜の花の美しさを歌った句や和歌はたくさんあるから本当のところはわからないけど、少なくともその作家さんが桜の花の美しさの中に怖さを感じていたのは間違いないだろうね。『桜の森の満開の下』って聞いたことない?」
……桜の下には死体が埋まってる、って話?
ぱん太「それは梶井基次郎の『桜の樹の下には』だよ。そうじゃなくて、坂口安吾の書いたほう」
坂口安吾? ……現文でやったような……
ぱん太「文学史では『無頼派』として紹介されることが多い人だね」
ああ、無頼派! やったやった!
無頼派がなにかは知らないけど!
ぱん太「……無頼派っていうのは、従来の文学への批判からこれまでとは違う書き方をはじめた作家たちのことで、太宰治や織田作之助なんかが有名どころだね。
『批判』と一口に言っているけど、安吾は日本・海外、先輩後輩問わず、とにかくいろんな作家をこき下ろしていたんだ。漱石のことさえ『夏目漱石の小説の中には肉体が全く無い、生活という人間の側面がまったく描かれていない』なんて批判を書いているぐらいだから、それ相応に敵は多かったみたいだね」
……ロックだな安吾。
そこらへん含めて無頼派なんだろうなあ。
ぱん太「安吾は漢文や和歌が正統とされていた時代に世俗的な『戯作』の精神を復活させようとしたので『新戯作派』とも呼ばれている。
当時は笑い話とか説話は俗なものとして評価されていなかったんだけど、そういうおもしろさを復活させようとしたのが無頼派だったんだ。
『桜の森の満開の下』も説話というか、“むかしばなし”みたいなテイストの話なんだよ。
ちょうどいいから、今回の読書会は『桜の森の満開の下』にしよう!」
どんな話なの?
ぱん太「都に貴族がいて、街道に山賊が出るような時代のこと。鈴鹿峠に棲み着いた山賊が主人公だ。
この男は人殺しをなんとも思わず、自分の棲む山や谷のすべてが自分のものと思っているような男なんだけど、桜の森だけは怖いと思っている。満開の桜の下を通ると気が狂ってしまう、と。
その男が旅人を殺して、美しい女を連れ帰るところから物語が動き出す。
女は男の女房たちを殺すように言ったのを皮切りに、美しい衣や装飾品を持ってくるよう、男に次々と要求をし始める。男は女の美しさに、女の要求すべてを叶えようとする。
やがて、女は都に住みたいと言い出し、男もそれに応じるんだけど……
あとは読んでのお楽しみ」
へえ、ちょっとホラーっぽい感じだね。
ぱん太「情景描写がすごく幻想的で、それでいて日本の怪談独特のおぞましさ、グロテスクさもある。そして、美しい桜の森で迎える不思議なラストシーンがすごく印象的な作品なんだ。
短編なんだけど、心にしっかり刻みつけられるというか、場面場面が文章じゃなく映像イメージになって離れなくなるような作品だね。
映画や舞台の原作にもなってるし、評論家によっては坂口の最高傑作だという人もいるくらいなんだよ」
ふうん。
夏目漱石もそうだったけど、有名な作家って受験で名前や作品名を覚えるだけで、ほとんど読むことなく終わっちゃうんだよね。
これを機にちょっと読んでみようかな。
***
そんなこんなで第3回の課題図書は坂口安吾の『桜の森の満開の下』に決まった。
桜にまつわる男と女のちょっと不思議な話。
さっそく読んでみよう。
【読んだ後編】は5月21日公開予定です。
■『桜の森の満開の下』青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42618_21410.html
◎DBOYコラム
第1回:夏目漱石『三四郎』
第2回:シェイクスピア『お気に召すまま』