遠く伝承に目を向ければ、魔術師と呼ばれた人物は数多くいます。
アーサー王伝説に登場する魔術師マーリン、旧約聖書に登場するソロモン王も魔術師であったといわれます。中世では魔女の存在が盛んに喧伝されました。近世にもエノク魔術の創始者とも言われるジョン・ディーなどが知られています。
このように、人間と魔術は様々な時代で共存しながら生きてきましたが、科学の発達により次第にその存在感は失われていきました。
しかし二十世紀、第二次世界大戦以後の世界にも魔術師は生きていたのです。
今回ご紹介するのは、オースティン・オスマン・スペア。
芸術家でありながら、独自の世界観をもつ魔術師としても活動したスペアの生涯を探ってみましょう。
目次
オースティン・オスマン・スペア その生い立ち
オースティン・オスマン・スペアは1888年にイギリスに生まれました。貧しい警察官の家庭に生まれた彼は、13歳の時にはステンドグラス職人の見習いとなり美術の夜間学校に通っていました。
彼の美術才能は、すぐに明らかになりました。神童、第二のビアズリーとまで呼ばれたスペアは、奨学金を受けて王立の美術学校へ進学することになったのです。
そのスペアが、どうして魔術師として知られるようになったのでしょうか。
実は、少年時代の彼の自宅のそばには、「セイレムの魔女の末裔」を自称する魔女パターソン夫人が住んでいたのです。パターソン夫人は、スペアに魔術的な霊視法や四大精霊の喚起儀礼(エヴォケーション)などを授けていました。オースティン・オスマン・スペアがオカルティズムに接することになった最初のきっかけです。
その後スペアは、隠秘学結社「黄金の夜明け団」への加入や、クロウリーの魔術結社「銀の星」への参入を通じ魔術への造詣を深めていきます。
「銀の星」の機関誌には多数の挿絵の提供も行いました。スペアの芸術的才能は確かでしたがヨーロッパ全域に悪名が広がっていたクロウリーへの傾倒により、美術界からは受け入れられず、時折個展を開きながら、美術雑誌の編集者として慎ましい暮らしをするしかありませんでした。
しかし、スペアの魔術の研究はそれからも続いていくのです。
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オースティン・オスマン・スペア ゾス=キアカルタス
オースティン・オスマン・スペアが行なっていた魔術は、独特なものでした。
彼の魔術には魔法陣や呪文など、現代の人々が思い描くような仰々しいアイテムは必要ありませんでした。多くの魔術に必要とされる禁欲的な節制も不要で、スペア自身は魔術を行う直前までパイを口にしていたともいわれます。
スペアは、人間の深層意識には現在に至るまでの経験や特質、転生の記憶までもが刻み込まれていると想定していました。その深みを探求して、宇宙の根源的要素<キア>に触れることを目標に据えたのです。
スペアは<キア>に接触するために、法悦(オルガスムス)と放心(トランス)を用いました。スペアの魔術において、法悦は「生」、放心は「死」を意味します。つまり、「死と再生」を通じて真理に触れることで、生命力と超常的能力が得られると考えたのです。
このキアに達した欲望は実現可能であると、スペアは信じていました。
その手段として、スペアはあたらしい魔術の技法を生み出したのです。
スペアは魔術を使うために、彼自身が描く線画を用いました。
それは「アルファベット印形」と呼ばれるもので、願望を表現する文章中の「文字」を継ぎ合わせて作り出す特別なモノグラム印形です。この印を潜在意識に染み込ませ、そして忘れるというプロセスを踏むことで目標成就へ近づくといいます。
スペアが開発したこの魔術は「ゾス=キア信仰(カルタス)」と呼ばれます。
では、スペアは自身が編み出した魔術でどのようなことを行なったのでしょうか。次の項で見ていきましょう。
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オースティン・オスマン・スペア 3つの魔術実験
オースティン・オスマン・スペアが魔術を用いた事例として「物品引き寄せ」の魔術実験が知られています。心霊主義全盛のイギリスではよく行われた実演でしたが、スペアが活躍した第二次世界大戦後の時期では滅多に行われないものになっていました。
スペアは、「物品引き寄せ」により、空中から切りたてのバラを出現させると宣言しました。とはいうものの、スペアは数分間線画を描くだけでした。そして線画をテーブルに置き、精神を集中します。スペアが最後に「バラ」と宣言すると、驚くべきことが起きます。
一瞬の静けさを打ち破るように、衝撃と破裂音が魔術を行なっていた部屋に響き渡ったのです。なんと天井の石膏が剥がれ落ち、150ガロン(680リットル)の汚水が降り注ぎました。このタイミングで大規模な破裂が偶然なのか、あるいは魔術が何らかの効果を発揮したのかは現在でも不明です。起きた事態の恐ろしさにスペアの魔術を信じる人もいたことでしょう。
また、スペアはロバート・ヒュー・ベンスンという作家から、魔術によって雨を降らせることができるかを尋ねられたことがありました。彼は可能だと答え、シジルという印を、使い古した封筒に描き精神を集中させました。すると、10分もしないうちに小さな雲が現れてまたたくまに激しい雨を降らせ始めたということです。
そして3つ目です。
ある時スペアは、二人の男から精霊を見せて欲しいと頼まれます。スペアは、それは危険なことだと説明しますが彼らは聞き入れず、ついにスペアは独自の方法で精霊の喚起儀式を行いました。
すると、緑がかったもやが部屋に広がり、それは徐々に固まっていきました。しかしそれは、悪臭と毒気をはらんだ恐ろしいものだったのです。あやしい光を放つ精霊に、二人の男は恐怖にふるえ、スペアに追い払うように頼みました。スペアが術を施すと、精霊は縮み、腐った毛布のようになってバラバラになったといいます。
危機を脱したふたりの男たちでしたが、数週間のうちに一人は原因不明で死に、もう一人は精神病院に収容されてしまったそうです。適切な準備もなく精霊と接触したのが原因だと考えられています。
スペアの力の片鱗が見えるエピソードですね。
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ライターからひとこと
オースティン・オスマン・スペアは生前芸術的な評価は高くありませんでしたが、実は彼の残した芸術作品をレッドツェッペリンのジミー・ペイジがコレクションしているのだそうです。驚きのエピソードですね。