イラスト:鈴木康士
題名は知ってる文学作品 オススメされたから読んでみよう
ぼく:ラノベ編集者。理工系の大学からSEを経てラノベ編集者に、というめずらしい経歴の持ち主。ラノベは大好きでジャンルに関係なく乱読していたが、いわゆる「名作」や「文豪」にニガテ感があり、ほとんど読まずに過ごしてきた。
ぱん太:パンタポルタのマスコットにして本コラムのナビゲーター。読書に対して広く深い愛情を持つパンダっぽい生き物で、月1回文学オンチの『ぼく』とプチ読書会を開催している。作品への愛ゆえにマスコットとしての本分を忘れることもあるが、本人は気付いていない。
坂口安吾『桜の森の満開の下』
『桜の森の満開の下』(講談社文芸文庫) |
『桜の森の満開の下』を読み終わった。
読み終わるまでには30分もかからなかった。
にもかかわらず、作品の中で描かれていた情景一つひとつがしっかりイメージとして頭の中に刻み込まれ、絵物語を読んでたんだっけ? と思ってしまうような不思議な感覚に襲われた。
ぱん太「でしょー! ぼくも久しぶりに読み返してみたけど、坂口安吾の最高傑作って言われてるのもよくわかる作品だと思ったよ!」
ぼくもぱん太くんが言っていた言葉の意味がわかったよ。
「場面場面が文章じゃなく映像イメージになって離れなくなるような作品」って言ってたじゃない?
情景描写が濃密だとか、すごく詳細に書いているとかってわけではないのに、語られているシーンが画像としてはっきり脳内に再現される感じがするんだよね。
特に女が登場してからのシーンは、はっきりした美しさや恐ろしさというより、まるで夢の中みたいな漠然とした妖しさがビジュアル的に心に残る感じ。
本を読んでてこんな気分になったのははじめてで、思わずもう一回読み直しちゃったよ。
ぱん太「いいね! そういう体験は名作ならではだよね!」
桜の森と言えば、ふつうの人は『綺麗』『美しい』光景を想像するところを、この作品では冒頭から『誰もが恐ろしさを感じて、一目散に逃げ出したくなるような場所である』って言い切っちゃってるじゃない?
最初読んだときは、正直「なんのこっちゃ」って思ってたんだけど、読み返してみるとなんとなく納得できるというか。
きっと、安吾は桜を見て綺麗だと思っているのはもちろんなんだけど、そこからさらに隠された妖しさだとか、寂しさ、儚さなんかを伝えたかったんじゃないかな。
ぱん太「そうだね。ぼくも寂しさはこの作品の重要なキーワードだと思う」
寂しさ。そうだ。ラストに、すごく心に残った下りがあったんだ。
彼は初めて桜の森の満開の下に坐っていました。いつまでもそこに坐っていることができます。彼はもう帰るところがないのですから。
桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分かりません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。
このシーンを見たとき、寂しさもそうだけど、ぼくはこの話は男の孤独の物語だったのかな、と思ったよ。
この作品を通して、ぼくは男が『無頼』の存在として、もっと言えば本能のままに生きる森の獣のような存在として扱われているように思ったんだ。
人としゃべるのを退屈だといい、人を殺してなんでも奪ってくる。
女に請われるままに衣服や財宝をあつめ、生首を持ち帰る。
でもこれは“残酷”とか“残忍”というのではなく、ただ己の心のおもむくまま、あるいは求められるがままに、いわば“無邪気”に振る舞っていただけなのではと思えたんだよね。
一方で、女は「都会的なもの」というか、「文明の醜いところ」の象徴なのかな。
見かけは誰よりも美しいけれど、わがままで、気ままに人の命を奪うよう男に命じ、男には価値のわからない衣類や宝飾を喜び、男が集めてきた御馳走を馬鹿にして、男が誇るものの価値を認めない。
汚い手で触るなと服に触れることさえ許さず、ついには男にはちっとも良いと思えない都に住みたがり、男には理解できない『首遊び』に耽る。
対極的な二人を交わらせることで、安吾は都会的なもの、突き詰めれば人間の心の怖さや残酷さみたいなものと、そしてその残酷さに触れることで深まっていく孤独を語りたかったのかも知れないね。
ぱん太「安吾は『文学のふるさと』というエッセイの中で、『救いがないということ自体が救いである』ということを言っているんだ。
『シャルル・ペロー版“赤ずきん”の残酷な<救ひ>のない結末を鑑み、<生存それ自体が孕んでゐる絶対の孤独>が<文学のふるさと>』なんだ、とも。」
「生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」か……。
ラストで、絞め殺されてしまった女は数枚の花びらとなってかき消え、男もまた花びらとなって消えてしまうよね。
女が本当に鬼だったのか、それとも男が恐れていたように桜の樹の下で気が狂ってしまったのか、あるいは女を内心怖れていた男が激情に任せて殺してしまっただけなのか――本当のことはなにもわからないまま、2人は桜の樹の下に消えていく……
古くからある説話やおとぎばなしのような、不思議で、それでいてもの悲しい終わりかた。
これも『残酷な救いのない結末』なのかも知れないけど、安吾はこれこそが男にとっての、そして女にとってもまた救いなんだ、と言いたかったのかもね。
だからこそ、最後にこんな男のシーンを入れたんじゃないだろうか。
ほど経て彼はただ一つのなまあたたかな何物かを感じました。そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分りかけてくるのでした。
ぱん太「そうだね。安吾はこの作品を書く2年前、東京大空襲の死者を集めて上野の山で焼いたときに見た満開の桜が原風景となった、と書いているんだ。満開の桜の森を人気のない風だけが吹き抜け、逃げ出したくなるような静寂が張り詰めていた、と。こういう悲しい原体験があってこそ、『救いのない結末』もまた救いなんだ、という考えにつながったのかもね」
……なんだか暗くなっちゃったけど、そういうところも含めてとにかくおもしろかった!
安吾はこういう感じの作品が多いの?
ぱん太「うん。安吾を語るキーワードはいくつかあるけど、『鬼』もそのひとつと言われているよ。
このキーワードで言うなら『青鬼の褌を洗う女』はかなりおもしろい作品だと思う。
あと、直接鬼が出てくるわけではないけど、『夜長姫と耳男』はヒロインであるヒメの残酷さや、なんとも救いのないラストが『桜の森の満開の下』に近い印象を受ける作品だよ。どちらもオススメ!」
どっちも青空文庫に入ってたな。
ありがとう! さっそく読んでみるよ!
***
その日の夜、ぼくは再び桜並木から一本奥の路地に入ってみた。
あの裏門の満開の桜に、もう一度向き合ってみたかったからだ。
だけど、あの日と同じ道を通っているはずなのに、1時間近く探し回っても、裏門はおろか小学校にもたどり着くことができなかった。
あの夜、ぼくは本当に桜を見たんだろうか?
あるいは、あの桜を見たくないという無意識の思いが、ぼくの足を迷わせているのか。
それともぼくはあの桜を見て、すでに気が狂ってしまっているのか。
それを確かめる術はもう無い。
でも、それでいいじゃないか。
こんな不思議な終わり方も、桜の夜には似つかわしい。
◇DBOY記事
第1回:夏目漱石『三四郎』
第2回:シェイクスピア『お気に召すまま』