『ピクニック・アット・ハンギングロック』
(ジョーン・リンジー著/井上里訳)創元推理文庫
March 2,2019
親愛なるお姉さまへ
この季節は寒すぎて、いつにも増して外に出る気が起らないわね。やっぱり、暖炉をたいた家の中で読書やゲームをするに限ります。
2月といえばバレンタインデー。この国では好きな男性にチョコレートを贈るのが習わしらしいのだけれど、わたくしの身近に愛を捧げるに足るような人物は見当たらないわ。お姉さまが近くにいたら、とびきりのチョコレートを贈れたのだけれど……。
もう過ぎてしまったのが残念ね。それでも今月はバレンタインの季節にぴったりな作品、『ピクニック・アット・ハンギングロック』を紹介するわ。
“バレンタインデーの午後、まさにこの場所で、イーディスと三人の少女は小川を渡ったのだ。目の前にそびえるハンギングロックは、太陽に照らされて白く光っている。そこへ、かすかに揺れる木々の枝が、複雑な模様の影を落としていた。レースみたいできれいだわ―――ポワティエはそう考えながら、首をかしげた。こんなにきれいな場所で、どうしてあんなに悲しい事件が起こってしまったのかしら……。”
舞台は1900年、オーストラリアの奥地に建てられた寄宿女学校アップルヤード学院。ちょうどバレンタインデーである2月14日、生徒とフランス語教師ポワティエをはじめとする引率の教師たちは、ハンギングロックへピクニックに出かけるの。
中心となる生徒は、長いブロンドの髪の心優しいミランダ、実家が大金持ちで黒い巻き毛の美人アーマ、お堅い数学教師のお気に入りである賢いマリオン。余談だけれど、少女たちのほほえましいやりとりを読んでいると、思わずにやけてしまうわ。そしてこの3人に太っていて鈍感なイーディスが付いていき、4人はハンギングロックの頂上を目指すのだけれど……。
キャンプ場に残った教師や御者の時計は不吉にも12時で止まってしまい、木々が怪しくざわめくなか、いつまで待っても4人は戻ってこない……。
事件以来、学院とその周辺は大混乱に陥るの。生徒が行方不明になったのだから、当然よね。唯一戻ってきたイーディスの話は要領を得ず、刑事たちの捜査も難航。そんな中、事件当日少女たちを見かけたというイギリスから来た青年マイケルとその御者で友人のアルバートも、独自にハンギングロックの捜索を始めるの。そして彼らによって、不思議なことに眠ったままの状態のアーマが発見される。失踪から1週間も経っているのにアーマはほぼ無傷だった。
アーマは数日後に目を覚ますのだけれど、事件の日になにが起こったかは全く覚えていないの。しばらくの間マイケルの叔父夫婦の館で休養させてもらうことにしたアーマは、自分を救ってくれたマイケルに惹かれていく。でもマイケルは事件の日に偶然見かけた、小川を渡るマリオンの白鳥のような姿が忘れられない……。
そして事件が明らかにされないまま時は過ぎていき、外部から届く悪意ある噂や、そんな噂を耳にした保護者が次々と生徒をやめさせてしまった結果、学院はどんどん空気が悪くなっていくの。人を寄せ付けない、心身ともに強い女性であったはずの校長も、相次いで学院の関係者が不幸な出来事に巻き込まれていくにつれ、精神が崩壊してゆき……。
一体、事件当日に、少女たちになにが起こったのか? なぜその後学院の周囲で次々と不吉な事が起こったのか? 最後まで答えは明かされず、結末は読者に委ねられるかたちで終わっているわ。「実はこういうことだったのでは?」と読後にいろいろと思いを巡らすのはとても楽しいわよ。
この作品は1975年に映画化されていて、日本では「究極のカルト映画」としてマニアの間で人気があるみたいね。原作は今まで翻訳されてこなかったそうだけれど、映画を観た人もそうでない人も楽しめる素晴らしい小説だと思うわ。著者のジョーン・リンジーは自身が見た夢に基づいてこの作品を書き上げたというから、興味深いわね。
運命の歯車が少しずつ狂っていき、やがてすべてが崩壊する。そんな甘美なカタルシスを、ぜひお姉さまも味わってみてね。
愛を込めて
アイリス
◇書籍紹介
あの日は絶好のピクニック日和だった。アップルヤード学院の生徒たちは、馬車でハンギングロックの麓に向けて出発した。だが、楽しいはずのピクニックは暗転。巨礫を近くで見ようと足をのばした4人の少女と、教師ひとりが消えてしまったのだ。何があったのかもわからぬまま、事件を契機に、学院ではすべての歯車が狂いはじめる。カルト的人気を博した同名の映画原作、本邦初訳。
(「BOOK」データベースより)
定価:1,080円
発売日:2018年12月
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◇アイリスの夢百夜
第一夜:『アイリーンはもういない』
第二夜:『飛ぶ孔雀』
第三夜:『こうしてイギリスから熊がいなくなりました』
第四夜:『ホール』
第五夜:『エイリア綺譚集』
Irisについて
グルノーブルで700年続く名家に生まれ、不自由のない幼少時代を過ごす。
大好きな姉が2年前にイギリスへ嫁いでしまい、アイリスは従者と共に1年間日本へ留学することになった。
遠い島国から、姉へ向けて毎月一通の手紙を書いている。お気に入りの本の感想を添えて……。