イラスト:鈴木康士
題名は知ってる文学作品 オススメされたから読んでみよう
【読む前編】はこちら。
迷羊(ストレイ・シープ)、迷羊(ストレイ・シープ)……。
『三四郎』という作品は、変化が激しく生きづらい「現代」で、いかに自分の生きる世界を選ぶか、という物語であり、同時に“愛”を探す物語だ。
この作品が書かれたのはもう110年も前のことだが、僕らが抱えている漠然とした将来への不安感と通ずるところがある。家族・仕事・恋愛での身の振り方など、悩みは尽きることがない。
でも僕が注目したのは“愛”の描き方だった。
三四郎たちは“愛”の話をいろいろしているけれど、全編を通して“愛”が希薄なんだ。年長者は結婚に対して否定的だし、女性に対して嫌悪感を抱いている。そして誰しもが、この世界での生きづらさを感じているようだった。
***
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」
汽車で三四郎と乗り合わせた広田先生はこんなことを言う。
『三四郎』に登場した人々は、頭の中で何を考えていたのだろう。夏目漱石の文章は、人物の動作や仕草、風景の描写などの「認識的な要素」を書くのだが、そこから「情緒的要素」――つまり人物の心情を色濃く浮き出させるものになっている。
たとえばこんなふうに。
三四郎はたしかに女の黒目の動く刹那せつなを意識した。その時色彩の感じはことごとく消えて、なんともいえぬある物に出会った。
これは三四郎が初めて美禰子と出会ったシーンの描写だ。三四郎の気持ちは「なんともいえぬある物に出会った」と、自分の中に湧き上がる感情を理解できず、「矛盾だ」と困惑してしまう。しかし読者にはわかる。これが三四郎に恋が芽生えた瞬間なのだ、と。
『三四郎』では、このような描写から心情を読み解かせるようなシーンがふんだんに盛り込まれている。なるほど、これはちゃんと読んでみないとこの作品の魅力を味わうことはできない。
味わい深く美しい文章だから、三四郎や美禰子、そして他の人物の「頭の中」に広がる思考を考えたくなってしまう。そして、わずかな描写の中からも、彼らの生い立ちを想像させられるのだ。
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主人公の三四郎は生真面目で堅物な青年だ。
熊本から東京へ来る途中の名古屋で、宿を共にすることになった女性を避けるようにしていた三四郎は、その女性から「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」と言われてしまう。さらには母からの手紙にも「お前は子供の時から度胸がなくっていけない」と言われてしまう始末。
この母親、本編には手紙だけで登場するが、かなり過干渉な母親だということがわかる。手紙の内容は三四郎を心配しているようで、結局は自分の話ばかり。
三四郎は熊本の田舎で、過干渉な母親とうるさい幼馴染みに挟まれて暮らしていたのだろう。しっかりと勉強をしたことで、古ぼけた田舎と母親から逃れて、東京へとやってきた。
田舎はもはや「立退場」のようなものであり「三四郎は脱ぎ棄てた過去を、この立退場の中へ封じ込めた」とまで言っている。
対する美禰子は、親子関係というものがまるでない。
「おとっさんやおっかさんは」
よし子は少し笑いながら、
「ないわ」と言った。美禰子の父母の存在を想像するのは滑稽であるといわぬばかりである。よほど早く死んだものとみえる。よし子の記憶にはまるでないのだろう。
よし子は少し笑いながら、
「ないわ」と言った。美禰子の父母の存在を想像するのは滑稽であるといわぬばかりである。よほど早く死んだものとみえる。よし子の記憶にはまるでないのだろう。
両親を失い、放任主義の兄二人(長兄は亡くなっている)と暮らしてきた彼女だからこそ、理知的な「近代的女性」になったのだろう。
けれど彼女もまた、愛が何かもわからずに成長してきてしまったように感じる。
自分の好意を相手にどう伝えたらよいかわからず、「試し行動」のような行いしかとることができない。
菊人形をみんなで見に行って、野々宮に追いかけてほしくて一人だけはぐれたのもそう。展覧会で野々宮と会ったときに、三四郎と親しげにして「似合うでしょう」なんて言ってしまうのも「試し行動」だ。
一方の三四郎もまたこんなことを思っている。
「そういうこともある。しかしよくわかったとして、君、あの女の夫(ハスバンド)になれるか」
三四郎はいまだかつてこの問題を考えたことがなかった。美禰子に愛せられるという事実そのものが、彼女の夫ハスバンドたる唯一の資格のような気がしていた。言われてみると、なるほど疑問である。三四郎は首を傾けた。
三四郎はいまだかつてこの問題を考えたことがなかった。美禰子に愛せられるという事実そのものが、彼女の夫ハスバンドたる唯一の資格のような気がしていた。言われてみると、なるほど疑問である。三四郎は首を傾けた。
「美禰子に愛される」ことを求めているが、自分から「相手を愛する」という考えが思い付けていない。
誰かから愛されたいけど、自分から愛することはできない。
三四郎も美禰子も、「誰かを愛する」ということがよくわからなかったのかな。
ぱん太:漱石の作品に出てくる男女は、だいたいそうだね。
親子関係に問題がある人物も多いし、それが印象的に描かれているよね。
ぱん太:そうだねぇ。漱石の出自として、あまり家族の話は書かないんだ。
漱石の幼少期はひどいものだったようだ。望まれない子として生まれ、里子・養子に出されるが養父母は離婚、復籍も遅れるなど家庭環境はめちゃくちゃだった。
母親からの過干渉も、漱石の体験として残っているようだ。
母親から結婚を勧められた三四郎への返答を、広田先生は「他人への親切」という言葉を用いながら、こんなふうに言っている。
「うん、そうそう。なるべくおっかさんの言うことを聞かなければいけない」と言ってにこにこしている。まるで子供に対するようである。三四郎はべつに腹も立たなかった。
「我々が露悪家なのは、いいですが、先生時代の人が偽善家なのは、どういう意味ですか」
「君、人から親切にされて愉快ですか」
「ええ、まあ愉快です」
「きっと? ぼくはそうでない、たいへん親切にされて不愉快な事がある」
「どんな場合ですか」
「形式だけは親切にかなっている。しかし親切自身が目的でない場合」
「そんな場合があるでしょうか」
「我々が露悪家なのは、いいですが、先生時代の人が偽善家なのは、どういう意味ですか」
「君、人から親切にされて愉快ですか」
「ええ、まあ愉快です」
「きっと? ぼくはそうでない、たいへん親切にされて不愉快な事がある」
「どんな場合ですか」
「形式だけは親切にかなっている。しかし親切自身が目的でない場合」
「そんな場合があるでしょうか」
広田先生は、母親の言うことを聞かなければいけないと言いつつ、暗に母親の親切は、親切自身が目的でないと、話題をはぐらかすように言っている。
三四郎はこの言葉の表すところがよくわかっていない。だから、母親から来た長い過干渉な手紙を読んでこんなふうに思ってしまう。
三四郎はばかばかしいと思った。けれどもばかばかしいうちに大いなる感謝を見出した。母は本当に親切なものであると、つくづく感心した。
皮肉なものだ。
***
「愛」が何かわからず彷徨う三四郎と美禰子は「迷羊」そのものだ。
三四郎は自分の周りの何もかもから取り残されたままになってしまう。
美禰子は自身の身の振り方を考えた末、好きでもない相手と結婚する。
「我はわが
この囁きで、三四郎と美禰子は別れる。「愆」とは何か「罪」とは何か。
男女、夫婦、親子……そうやって連なる人間関係にある罪の連鎖を、美禰子は感じ取っていたのかもしれない。「愛」を理解できなければその連鎖は止まらない。
迷羊(ストレイ・シープ)……迷羊(ストレイ・シープ)……。
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