中世ヨーロッパといえば騎士の時代。騎士たちはどのような暮らしをし、何を見て何を考え、どんな人生を送っていたのでしょう?
このシリーズでは、1165年にフランスに誕生した架空の騎士ジェラールを案内人に、中世ヨーロッパと騎士の姿をわかりやすくご紹介していきます。
第2回目のテーマは、「中世の洗礼と宴会」です!
目次
洗礼と当時の平均寿命
ジェラールは生まれて間もなく、教会で洗礼を受けました。大勢の大人たちが証人となり見守る中、産着を脱がされ、洗礼用の水槽の中で全身を水に浸されます。
こうした洗礼のやり方は、後の時代になると頭を水につけたり、頭に水を注ぐといった方法に簡略化されていきました。
洗礼を受けずに亡くなってしまうと、その子の魂は行き場を失い、永遠にこの世をさまようことになります。だから親たちは子どもが生まれると、できるだけ早く洗礼を受けさせようとしました。
現代日本人の平均寿命は男女とも80歳を超えていますが、ジェラールの誕生した12世紀ヨーロッパでは、平均寿命は20代後半だったという推測があります。
人々はどうして早くに亡くなってしまったのでしょう? 大きな原因は2つあったといわれています。
①飢え
農業生産力は少しずつ向上していたものの、12世紀の頃は毎年のように農作物の不作がありました。十分な食べ物を食べられず、大勢の人たちが亡くなっていったのです。
②病気
当時の人々は病気の知識も治療法も持ち合わせておらず、体力のない子どもたちは簡単に命を落としていきました。薬草や蒸留酒が薬として使われましたが、大きな効果は望めません。
病気の原因は身体に悪い血が溜まっているためだと考えられていたため、貴族たちは健康管理のために瀉血(しゃけつ。身体を傷つけ血を抜くこと)を行うようになります。
精神の病は頭に石が入っているからだと信じられていました。
この他、盗賊に襲われたり戦争に巻き込まれたりして亡くなる者、日常のケガが原因で亡くなる者もいます。
本当に、いつまで生きられるかわからない時代でした。教会がない村や、あっても司祭がいないケースもあり、全ての子どもが生まれてすぐ洗礼を受けられたわけではありません。親たちはたまらない気持ちだったでしょうね。
騎士たちの宴会
洗礼がすんだ後、ジェラールの父は近隣の城主たちを招き、城の広間で宴会を開きました。
生まれたばかりのジェラールはもちろん覚えていませんが、葡萄酒の杯を掲げた老騎士が大げさな美辞麗句でジェラールを祝います。当時は大げさに飾り立てられた言葉で礼を述べるのが習いでした。
当時の宴会の様子をご紹介しましょう。
平皿? フォーク? なんですかそれ
長テーブルの上には小さな板や厚く切ったパンが並べられています。当時はこうしたものが皿として使用されていました。
汁物は木の深皿に入れられ、パンに浸したり、木のスプーンを使うなどして食べられます。
フォークはなく、客たちは自分で持ち込んだ小刀や共用のナイフを使って肉を切り分け、手づかみで食べていました。
*肉料理
肉は豚を中心に、牛、羊、鳩、鴨、鹿や猪などで、赤身よりも白身のある脂肉が好まれます。臭みを消すために大量の香辛料を使い、シンプルに煮たり焼いたりしていました。
*魚料理
サケやマス、川カマス(パイク)などの魚も食べられます。四旬節の時は肉を食べてはいけないとされており、信心深い者は塩漬けのニシンなどを食べていました。
*豆・野菜類
そら豆やエンドウなどの豆類、キャベツや玉ネギ、カブ、セロリなどの野菜も食べられます。どろどろになるまで煮込まれ、ポタージュのような状態で提供されていました。
*果物
イチジク、マルメロの実、リンゴ、栗、クルミの他、地域によってはメロンなども食べられます。
*酒類
フランス各地で葡萄が栽培され、騎士たちは大量の葡萄酒を毎日飲んでいます。葡萄酒には胡椒が入れられることもあったといいます。
その他、ビールや果実酒も並べられていました。
父をはじめ、領主たちはこのような宴会を度々開いたり、遠い国の珍しい品々を部下に買い与えたりしています。気前の良さが美徳であり、また部下である騎士の心を繋ぎ止めるのにも役立つのです。
ちなみに、今回ご紹介したような食事ができたのは騎士などごく一部の者だけで、大部分の農民たちはもっと粗末な食事をしています。
彼らは小麦を使った白パンではなく、大麦で作った黒パンを食べています。パンを食べられる者はまだましで、多くの農民たちは燕麦などの穀物をミルクで煮込み、粥にして食べていました。
ジェラールの父親はこれから息子に様々なことを教えていきます。彼がどんなことを学ぶのか、次回をお楽しみに!
◎中世騎士物語シリーズ
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