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彼はマケドニアの王子として生まれ、戦いの果てに遠くインドの一部までもその手中におさめました。後世に広く語り継がれ、聖書やコーランにもその名は残されています。
数々の国を征服した大英雄アレキサンダー大王とはどのような人物だったのでしょうか。
今回は、アレキサンダー大王の人柄にクローズアップしてみましょう。
目次
誕生は嵐とともに。アレキサンダー大王の幼少期
アレキサンダー大王が治めたマケドニアは、現在の東ヨーロッパのバルカン半島中部にあった王国です。アレキサンダー大王が生まれたのは紀元前356年の10月、嵐の夜だったといいます。フィリッポス二世と王妃オリュンピアスの間に王子として生を受けました。
王子として生まれたアレキサンダーでしたが、父フィリッポス二世にはあまり顧みられない幼少期だったといいます。
マケドニアを含むギリシャ諸国は、このころペルシアの差し金で政情が不安定な状況が続いていたことが理由のひとつです。また、フィリッポス二世が妻オリュンピアスの浮気を疑っていたのも原因だといわれています。
こうした要因から、アレキサンダー大王は母に養育されました。
「人ならざるものの力」を強く信じていた母オリュンピアスは、アレキサンダー大王に神の血が流れていると信じ、息子を厳格に育てました。
王子であるにもかかわらず贅沢と浪費も許さなかったといいますので、その厳しさも推し量れますね。
こうしてアレキサンダー大王は、厳格で神秘主義の母と監督者レオニダスの厳しい教育により、自分が神に選ばれた人間であるという思いを強くしながら育っていきました。
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戦いの才能に不安あり! 物静かだったアレキサンダー大王
アレキサンダー大王の父、フィリッポス二世は悩んでいました。
息子のアレキサンダーの柔弱な夢想家ぶりを嘆いていたのです。アレキサンダーは母親っ子の上に、顔つきもやわらかく中性的でした。
東ヨーロッパから果てはインドまで東征したアレキサンダー大王のイメージとは、ずいぶんかけ離れています。
読書が好きで大人びた物腰で話す息子に、軍人としての成長を期待したフィリッポス二世は、アレキサンダーに特別な教師をつけることを思い立ちます。それがかの有名なアリストテレスでした。
アリストテレスに学んだ二年間アレキサンダーは勉学に励みましたが、幼少の頃から培った神秘主義と自らを神話の英雄と同一視するようなエリート意識は、払拭されませんでした。
このように父親を悩ませたアレキサンダーですが、フィリッポス二世を喜ばせたというエピソードも残されています。
テッサリア人の馬飼が、みごとな黒毛の馬を王に売りに来たときのことです。ブケファラス(牛の頭)と名のついた背の高い馬は、強情で並みの者に乗りこなすことはできませんでした。王は気難しいブケファラスを気に入らず馬の商人を追い払おうしますが、12歳のアレキサンダーはそれを強く止めて言いました。
「腕前と度胸のなさゆえに、名馬を失うのは惜しい。私がその馬を乗りこなしましょう」
父王は息子の無礼な物言いをしかりつけましたが、アレキサンダーは臆さずにこう続けます。
「もし私が乗れなければ、ゼウスにかけてこの馬の代金は私が支払います」
気性の荒いブケファラスでしたが、素晴らしい馬でしたのでその値段は法外なものでした。
難しい挑戦に思われましたが、アレキサンダーはブケファラスを見事に乗りこなすことに成功したのです。
フィリッポス二世は喜び、ブケファラスはアレキサンダーの愛馬になりました。インドのヒュダスペス川で命尽きるまで、ブケファラスはアレキサンダーと戦場を駆け巡ったと伝えられています。
その才能は、この後のアレキサンダー大王の快進撃にも繋がっていたと言えるでしょう。
アレキサンダー大王の初陣は16歳の時でした。その活躍はめざましく、すぐに武勲をたて摂政に任じられました。次に制圧に乗り出した反乱も、士官候補生の身でありながら指揮官として鎮圧に成功しました。17歳の時には一部隊を率いてアテナイ・テバイ同盟軍を打ち破り、戦局を左右するほどの手柄をたてたと言いますから驚きです。
のちに「アレキサンダー大王」とも呼ばれる彼の、軍事的な天才が次々に明らかになったのです。
快刀乱麻、アレキサンダー大王がほどいた結び目
父フィリッポス二世が暗殺されると、アレキサンダー大王はアレキサンダー三世と名乗ってついに正式なマケドニアの王になりました。
やがてギリシアを統一し、小アジアへその食指を伸ばし始めたアレキサンダーは、かつてトロイアと呼ばれていたイリオンに向かいます。そしてトロイア戦争の英雄であり、アレキサンダーの遠い先祖にもあたるアキレウスの墓に敬意を込めて油を塗ったと伝えられています。
ホメロスの「イリアス」を愛読するアレキサンダーにとって、イリオンは聖地でもあったのです。勇猛な王として名を馳せながらも、読書好きの一面や、神秘主義的な志向が変わっていないことがうかがえるエピソードですね。
アレキサンダー大王は、この小アジア遠征中にゴルディオンという街に立ち寄りました。
この町のゼウスの神殿で戦勝を祈願したアレキサンダーでしたが、神殿に奉じられていた農夫の車に目をつけました。この車の梶棒には木釘が打ち込まれ、ナナカマドの樹皮が複雑に縛り付けてありました。「ゴルディオスの結び目」と呼ばれた特別な結び目です。それにはこんな伝説が隠されていたのです。
「この結び目をほどく者は世界の王になる」
アレキサンダー大王は伝説を知ると、結び目を剣で切り離してほどいてしまいました。一説には木釘を抜いて、結び目をほどいたともいわれています。どちらにしても、既成のルールを破ることで自分を「世界の王」に仕立て上げたのです。
アレキサンダー大王の遠征への自信と、自らを神の子と信じて疑わない不遜さが、よくうかがえるエピソードと言えるでしょう。
母親の神秘主義の薫陶を受け、繊細な少年として育ったアレキサンダーはそれからも数々の国を征服したのち――。
紀元前323年、アラビア遠征準備中に、志半ばにてその生涯を閉じました。