作者:東雲佑
うたた寝から目覚めたとき、車両内の混雑は極みに達していた。ボックス席の向かいでは妻が文庫本を読んでいた。ミュージックアプリのプレイリストは一巡して再生を停止させていた。
「……いま、どのあたり?」
イヤホンを外しながら僕が尋ねると、妻は顔もあげずに「ちょっと前に赤羽を過ぎたよ」と答えた。
なるほど、と思う。僕は大宮の少し手前あたりから寝ていたらしい。高崎線の上りは、まさにその大宮から上野までが一番混雑するのだ。
4人がけのボックス席には2人の男子高校生が同席していた。通路には乗客がすし詰め状態になっている。まさしく立錐の余地もない有様で。
名状しがたい申し訳なさとそれにかすかな優越感を覚えながら、振動に合わせて揺れる人々に背を向けて僕は窓の外を見た。
並列して走るいくつもの線路がある。
コンクリートの眺望の中に計画的な緑がある。
ビルの向こうに、さらに高いビルがある。
車窓には東京という景色があった。
*****
前回の記事のあと、文庫の刊行や目の手術、さらには術後の視力低下などがあり……なんともはや、気がつけば3ヶ月も連載が停止してしまった。
お待たせしてしまった新紀元社さん、それに読者の皆様、本当に申し訳ありませんでした。
そして、待っていてくれたそこのあなた、どうもありがとう。お待たせしました。
さて、その前回の記事というのが公開されたのは7月18日のことだった。
まさにその7月18日水曜日、僕と妻はある用事のために東京へと出かけていた。
目指すは新紀元社である。
高崎駅から上野東京ラインに揺られること2時間、日本の鉄道駅の帝王たる上野駅に到着する(どういうわけか僕の中には、上野駅は帝王、東京駅は
中央改札近くのニューデイズで飲み物を買って喉を潤すと、僕らは奇妙に天井の低い通路を歩いて3番線のホームを目指す。乗り込んだのは3分置きに発着する緑の車両だ。
山手線外回りで上野から3駅、僕らは神田駅で下車し改札を抜けた。
「うわ、駅の目の前が飲み屋街だ」
竹橋方面出口に立った僕は思わず声を上げてしまう。
神田駅は出口から細い道を挟んだすぐ先が飲み屋街になっていた。ロータリーも広場も抜きで、シームレスに下町の情緒が横たわっている。
あるいはそれが東京のスタンダードなのかもしれないが、お上りさんの僕には十分に感動的な光景だった。
「神田って、駅から少し歩くとオフィス街になってるんだよね?」
重岡さんの説明を思い出しながら、信じられないという猜疑の声で僕は言った。お堅いイメージのビジネス街と目の前に軒を連ねる店々とが、どうしても結びつかない。
すると。
「なに言ってるの。オフィス街が近いからこそ、でしょ?」
なおも仰天している僕に妻が言った。
どういう意味? 僕がそう尋ねると、これだから小説一辺倒の人は、と妻が呆れた声を出す。
妻のその反応でようやく気づいた。
「……あっ! そうか!」
つまり、ビジネス街あればこその飲み屋街なのだ。この飲み屋群は、アフターファイブのビジネスマンたちを客層に当て込んでこの場所に店を構えているのだ。
「やっぱりあなたは小説家だね」
やっぱりあなたは勤め人にはなれないね――そんな言外の意図を隠した妻の言葉に、僕はなにも言い返すことが出来なかった。
それはさておき。
神田駅から西に向かって歩き始めると、すぐに街の属性が変わり始めた。飲み屋をはじめとした飲食店は一つ辻を跨ぐごとにオフィスへと比重を明け渡し、東京都道403号(通称本郷通り)という大きな道路を渡った地点で完全になりを潜める。
「このあたりのはずだよね?」
「はずだよねえ?」
Googleマップと重岡さんの案内メモを頼りに(前者に比べて後者は笑えるほど役に立たなかった)新紀元社を目指していた僕らは、そこで完全に行き詰ってしまった。
なにしろ四方八方、どちらを見ても同じようなビルばかりで目印になるようなものがない。これでコンビニの一軒でもあればまだ手がかりにもなるがそれすらもないのだ。
砂漠のようなビル街で僕らは途方にくれる。Googleマップのマーカーは完全に停止しているが、近くにあるのは1階部分がタクシー会社の車庫になっている小さなビルのみ。おそらくはGPSが誤作動を起こしているのだろう。
「とにかく、重岡さんに電話してみよう。でも目印がこの車庫付きビルだけか……」
これでほんとにたどり着けるのだろうか。そんな不安な思いにとらわれながら僕はコールする。
重岡さんが電話に出る。僕はすぐ近くまで来ているらしいが迷ってしまったこと、タクシー会社の車庫のあるビルの前にいることなどを告げた。
頼りない目印に弱気になっている僕に対して、重岡さんは意外なほど快活だった。
そして「すぐに迎えに行きます!」と言って電話を切った。
それから、待つこと1分足らず。
「お待たせしました! お久しぶりです!」
重岡さんは現れた。目の前の車庫付きビルから。
「わかりにくかったでしょう? はじめていらっしゃる方はみなさん迷うんですよ」
窓際の応接スペースに案内してくれたあとで、営業企画部長の阿部さんが言った。さもありなんと頷く僕である。目印がなくてわかりにくいという理由もあるが、なによりタクシー会社の車庫の上という立地は我々が思う出版社像からはいささか乖離している。
新紀元社の『出版社らしくなさ』はその内部にも及んでいた。
新紀元社のオフィスは前述した雑居ビルの2階ワンフロアにすっぽり収まっている。上で『応接スペース』などと書いたが、来客対応用のスペースとデスクの並んだスペースは広い一個の室内に同居していて、本棚として使われているオフィス用のスチール棚だけが2つの空間を区切っている。2階に上がるために使ったエレベーターも『進化した井戸つるべ』という趣のある簡素なものだった(※1)。
しかし。
最初は面食らってしまったが、しかしここは確かに新紀元社だった。
スチール棚の本棚にはギッシリと刊行物が並べられている。テレビ番組やゲーム、アニメの関連書籍。モーニングスターブックスなどのラノベにTRPGのルールブック。ミリタリーや、それになんと言っても『Truth In Fantasy』や『新紀元文庫』などのファンタジーの解説・資料書籍。ラノベ作家であればこれらの本にはきっとお世話になってきたはずだ。
3つある応接デスクのひとつには打ち合わせ中の作家と編集者がいた。お互いに前向きな態度で新作について語り合っていて、驚くほどネガティブさがない。作家と担当が同じ方向を見ているのが傍目にもわかって、僕にはそれが羨ましかった。
ここは新紀元社なのだ、とあらためて思う。僕はいま、あの新紀元社に来ているのだ。
「それじゃあ」
向かいに座っていた重岡さんが言った。
「予定の時間までまだ1時間くらいありますし、今のうちにいろいろ打ち合わせしておきましょうか。今日の企画のことだけでなく、『作家と学ぶ異類婚姻譚』の今後のこと。あと、それから」
「うん」
「学んだ作家の異類婚姻譚小説のことを!」
ひときわテンション高く言った重岡さんに、隣に座っていた阿部さんが笑い出す。なんだか意味ありげな笑いだった。
「いえ、ようやく重岡の念願がスタートラインにこぎ着けたなと思ったら、なんだか感慨深くて」
「念願? スタートライン?」
どういうことですか? と尋ねる僕。
阿部さんは笑顔のまま答えてくれた。
「実はモーニングスター大賞の選考で東雲先生の『雑種の少女の物語』を読んだ時から、重岡は『この作家さんと小説の仕事をしたい』ってずっと言ってたんですよ」
いま明かされる新事実だった。僕が思わず視線を飛ばすと、重岡さんは「えへへ」と言いながら笑った。あのあざといやつである。
「モーニングスター大賞のあともまだ諦めきれなかったようで、私が先生に社長賞の件でメールしたあと慌ててデスクに飛んで来たんですよ。東雲先生にパンタポルタ連載のオファーを出したい、と」
蓋を開けてみれば。はじまった連載は小説じゃなくてエッセイでしたけどね。阿部さんは言った。
「その連載が今ではパンタポルタの看板連載なんですから、遠回りはしたかもしれないけど、結果オーライです」
僕は再び重岡さんを見る。重岡さんは再びえへへと笑った。
あざとさは不思議と感じなかった。きっと、この担当が僕が知っていたよりも遥かに前から僕との仕事をはじめてくれていたのだと、そう知ったからだろう。
「おろそかには書けない、だね」
妻が言った。言われなくとも、と僕は思う。
阿部さんの背中の向こう、隣の応接デスクではさっきの作家と編集が打ち合わせを続けていた。ひたすら前向きに、楽しそうに。
彼らを羨ましいとは、もう思わなかった。羨む理由がもうなかった。
打ち合わせはまるっきり歓談の延長として進んだ。冗談とボケ、それに対するツッコミが会話を円滑にする。誰がボケて誰がツッコんだのか、それについては読者の想像に委ねたい。
『学んだ作家の異類婚姻譚』企画、新たに始動しようとしている異類婚姻譚小説は、この連載同様パンタポルタでの連載になる。
「連載ふたつ掛け持ちかぁ……」
遅筆な僕にできるだろうか。そんな不安を吐露する僕である。
「小説がはじまったら、『作家と学ぶ』のほうは不定期連載になりそうですね。でもほら、「読者だより」なら先生も書きやすいんじゃないですか?」
しばらくは「読者だより」メインでいきましょう! と重岡さん。やれやれ、本当に読者頼りな連載である。
「それと先生、これから文庫版『図書ドラ』の刊行作業もはじまりますよね?」
「うん。7月の終わりから8月の中頃までは忙しくなりそう」
冒頭でも書いた通りこの日は7月18日。宝島社からゲラが届いて校正の作業がはじまるのはこの数日後である。
「なので、申し訳ないのだけど来週と再来週、もしかしたらその次の週も『作家と学ぶ』はお休みいただくかも……」
「かしこまりました。もともと隔週掲載の予定でしたしね。東雲先生のお帰りを、読者も私も首を長くしてお待ちしてますよ!」
休載を快く受け入れてくれた担当に心からありがとうを言う僕であった。
しつこく念押しするけど、この日は2018年の7月18日である。この後視力がどんどん低下して、急遽8月に両目の手術をすることになり、さらには術後の経過が思わしくなく2.3週間どころか3か月も連載が停止することになるなど、この場の誰一人として想像すらしていなかった7月のあの日である。
読者の皆様、大変お待たせいたしました。きっと重岡さんの首はインドネシアに生息する特殊な亀のように長くなってしまったことであろう。6本腕に加えてまた新しい属性を担当に付加してしまった。ここまでやればもはや需要はモン娘好きの折口先生(※2)くらいにしかあるまい。
「ところで先生」
自分の首が将来的にえらいことになるなんて知りもしない担当が言った。
「異類婚姻譚小説の構想、もうなにかありますか?」
重岡さんにこう問われて、僕はなんと答えるべきか考えてしまう。
構想は、正直まだなにもない。どんな人物を書くか、どんな文体で書くか、どんな物語にするか――本当になにひとつ浮かんでいない。
ただ――。
「構想は、全然ない。本当になにも浮かんでない。ただ……」
「ただ?」
「構想はないけど、書いてみたい題材はある」
同席している3人の視線が僕に集まる。
僕は言う。
「4月に取材した女化町の異類婚姻譚、あれを題材に書いてみたい」
どんな人物を書くか、どんな文体で書くか、そして、どんな物語にするかも考えていない。
にも関わらず、舞台だけははっきりと決まっていた。
茨城県龍ケ崎市と女化町、あの土地に伝わる『女化きつね』の伝承を、是非とも扱ってみたかった。
ふわっとはじまった打ち合わせはふわっとしたままで終わった。話すべきことは、多分あらかた話せたはずだ。
スマホの時計は13時48分を表示していた。阿部さんはご自身の仕事に戻り、席には僕たち夫婦と重岡女史だけが残されている。隣で打ち合わせをしていた作家と編集も、いつのまにかいなくなっていた。
「もうそろそろですね」
昼食代わりのお茶菓子を口に運びながら重岡女史が言った。うん、と僕は返事をする。時計が49分になった。
はじめに書いた通り、今日はある用事のために東京に、新紀元社にお邪魔している。用事とは連載の為の打ち合わせでもなければ、あざとい担当の顔を見ることでもなかった。
僕たちは人を待っている。その人は14時にこの場所に現れるはずだった。
53分、54分、そして、55分……。
「もしかして東雲先生、緊張してます?」
意外だとでもいいたげに重岡女史が言った。
当たり前だ。緊張するに決まっている。これからいらっしゃる方は、僕にそれだけの影響を与えた人なのだ。
57、58、59……。
と、そこではたと気付く。
……迷ってないだろうか? だって新紀元社の場所は、ものすごく……。
「や、やばい……!」
そう口走って僕が立ち上がった、その瞬間。
オフィスの入り口ドアが、ゆっくりと開いた。
「ごめんください。新紀元社さまはこちらでよろしいですか?」
現れたのはひとりの中年男性である。年齢は50歳ほど。リュックサックを肩にかけていて、実に人当たりの良い笑顔を浮かべている。
「失礼ですが」
僕はおそるおそる切り出す。
「塩田信之先生でよろしいですか?」
緊張しいしい尋ねた僕に、男性は、はい、塩田です、と答えた。やっぱりニコニコと笑顔で。
この人が僕らの待ち人だった。
塩田信之先生。編集プロダクションCB's Projectの発足メンバーであり現在はフリーでご活躍中の、30年以上のキャリアを持つライターだ。
CB's Projectはゲームの攻略本やファンブックの類をそれこそ星の数ほども手掛けてきた会社だが、その内訳にはATLUSの『真・女神転生』シリーズ(※3)の関連書籍が多く含まれる。それらの書籍の中で各国の神話や伝承にまつわるコラムを書いていたのが、塩田先生である。
中学生の頃に塩田先生の執筆したコラムを読んだ、そのことが僕のその後を決定づけたとすら言える。
僕らは塩田先生を自分たちの使っていたスペースまでご案内した。
窓際のひときわ大きな応接デスクに、僕と塩田先生が対面で座る。一通り挨拶を交わしたあとで、動転していた僕は帰り際に渡すはずのお土産を渡してしまう。
「それでは、今日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
議長席に座った重岡女史が、断りを入れてからボイスレコーダーをセットする。
2018年7月18日、水曜日。
僕らは『作家と学ぶ異類婚姻譚』の新企画である『ゲストと語る異類婚姻譚』の為に新紀元社に来ていたのだ。
※1
村上春樹の長編小説『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の冒頭に登場する表現。主人公は自分のアパートについている安手で直裁的なエレベーターをこうたとえている。
※2
モン娘とはモンスター娘の略。人外の要素を強く肉体に宿す女の子キャラクターのこと。流行の創作ジャンルだが、神話や伝承にもラミアやハーピーなどが存在する。あとペナンガランとか。ダッシュエックス文庫より『モンスター娘のお医者さん』を刊行している折口良乃先生はこのジャンルのエキスパートである。
※3
主に現代の日本を舞台に世界中の神話・宗教の神々や悪魔が登場し時に鎬を削るストーリーが売りのRPGシリーズ。塩田先生はこの女神転生に登場する神話や伝承に関して素晴らしいコラムをいくつも執筆されている。以下にwebで閲覧できるその一例を挙げておくので、是非読んで見てほしい。
参考 塩田信之の真4Fと神話世界への旅
http://megaten4f.jp/topics/column/
*作者紹介*
東雲佑(しののめ たすく)。幻想小説を得意としている。第3回なろうコンの拾いあげ作品『図書館ドラゴンは火を吹かない』が宝島社より発売中。2018年9月には、宝島社文庫で文庫化された。
『図書ドラ』をイメージした楽曲「Liekki」(曲詞:yukkedoluce)も人気。
第2回モーニングスター大賞では『雑種の少女の物語』が最終選考まで残り、社長賞を受賞。
東雲佑(しののめ たすく)。幻想小説を得意としている。第3回なろうコンの拾いあげ作品『図書館ドラゴンは火を吹かない』が宝島社より発売中。2018年9月には、宝島社文庫で文庫化された。
『図書ドラ』をイメージした楽曲「Liekki」(曲詞:yukkedoluce)も人気。
第2回モーニングスター大賞では『雑種の少女の物語』が最終選考まで残り、社長賞を受賞。
▷『作家と学ぶ異類婚姻譚』