血筋がものを言う王族には、若くして王位についた人物も少なくありません。
なかには、生後たったの数日で一国の頂きに据えられた例もあります。
今回は、生後6日という幼さで即位し「幼女王」とも称されたスコットランドの女王メアリ・スチュアートについてお話します。
目次
生後6日で即位! 幼女王メアリ・スチュアート
メアリ・スチュアートが1542年にスコットランド女王として戴冠したとき、彼女は生後6日でした。まずは幼女王の誕生した16世紀半ばの状況を見てみましょう。
当時、スコットランドは困難な政治状況に置かれていました。
折しも宗教改革の時代、隣国のイングランドが国王ヘンリー8世の離婚問題を機にプロテスタントへ改宗し、武力を盾にスコットランドへ同盟を迫っていたのです。しかしスコットランドはカトリック国です。イングランドとの同盟は、カトリックの同盟国フランスとの絶縁を意味しました。
そんな情勢下に、スチュアート家出身のスコットランド王ジェイムズ5世が30歳の若さで病死してしまいます。前年に長男と次男を相次いで失ったジェイムズ5世の血を継ぐものは、生まれたばかりの娘メアリしかいませんでした。
こうして幼女王メアリ・スチュアートが即位したのです。
しかしメアリ・スチュアートが受け継いでいたのは、スコットランド王家の血だけではありません。
彼女は母マリー・ドゥ・ロレーヌによるフランス王家の血、さらに祖母マーガレットによってイングランドのチューダー王家の血までも引いていました。
この高貴すぎる血が、幼女王を悲劇へと追い立てることになります。
スコットランド女王にしてフランス王妃 頂点の幼女王
このフランス行きは、4人の影武者を立てて極秘裏に行われました。彼女を皇太子の妃にしようと画策し、エディンバラ襲撃までおこなったイングランドのヘンリー8世を警戒してのことです。
メアリのフランス生活は幸福なものでした。彼女は国王アンリ2世に歓迎され、フランス式の教育を受けて少女時代を送ります。
やがて1558年、15歳になったメアリ・スチュアートは14歳のフランス皇太子フランソワと結婚し、皇太子妃となります。
同じ年、イングランドではプロテスタントのエリザベス1世が王位につきました。
これに横槍を入れたのが、メアリ・スチュアートの庇護者であるフランス王アンリ2世です。アンリ2世は「庶子のエリザベスには王位継承権はない。チューダー王家の血を引くメアリ・スチュアートこそがふさわしい」と主張したのです。
この事件は、エリザベス1世とメアリ・スチュアートの長年にわたる確執の幕開けとなりました。
翌年にアンリ2世が没し皇太子がフランソワ2世として即位すると、メアリ・スチュアートはスコットランド女王にしてフランス王妃となりました。この時期が幼女王メアリ・スチュアートの頂点といえるでしょう。
しかし黄金期は長くは続きませんでした。病弱な夫フランソワが急死し、メアリ・スチュアートは18歳にして未亡人となってしまいます。
フランスの後ろ盾を失ったメアリ・スチュアートは、1561年にスコットランドへ帰国しました。ここから幼女王の長い黄昏が始まります。
軽率な再婚が招いた幼女王メアリ・スチュアートの失墜
帰国したメアリ・スチュアートは、3歳下の従弟ダーンリー卿ヘンリー・スチュアートと再婚します。しかし、ダーンリー卿がメアリ・スチュアートの浮気相手を殺害するという事件により、ふたりの不仲は決定的となります。
結婚から2年後。
ダーンリー卿は謎の事故死を遂げ、メアリ・スチュアートは3度目の結婚をしました。
相手はダーンリー卿の「事故死」を仕組んだとされる人物です。
幼女王の無軌道ぶりに、スコットランド貴族の反発はピークに達します。再々婚から1ヶ月後、ついに貴族たちによる反乱が勃発。
1567年7月24日、スコットランド女王メアリ・スチュアートは廃位され、ロッホリーブン城に軟禁されました。次のスコットランド王には、彼女とダーンリー卿との息子ジェイムズ6世が即位しました。
奔放すぎた姫君 幼女王メアリ・スチュアートの最期
廃位の翌年に軟禁先から脱出したメアリ・スチュアートは、再びの王位を求めて挙兵します。しかしこの無計画な反乱もあっけなく鎮圧されると、彼女は亡命をはかります。亡命先はなんと宿敵イングランド。
困惑したのはイングランドのエリザベス1世です。体面上スコットランドへ追い返すこともできず待遇に苦慮した挙句、
メアリ・スチュアートは軟禁状態のまま、20年近くもイングランド中を転々とすることになります。
亡命して少しはおとなしくなるかと思われたメアリ・スチュアートですが、彼女は一向に態度を改めませんでした。相変わらずイングランドの王位継承権は自分にあると主張し、エリザベス1世を廃位へ追い込もうと画策しては失敗することを繰り返します。
しかしついに1586年、エリザベス1世の暗殺計画に関わった罪でメアリ・スチュアートは裁判にかけられます。かつての幼女王は、死罪を言い渡されました。
翌1587年2月8日。フォザリンゲイ城内にて、メアリ・スチュアートは斬首刑に処されます。享年44歳でした。
メアリ・スチュアートの死刑執行命令書に署名することを、エリザベス1世は最後まで嫌がったということです。自分を暗殺しようとまでした政敵のはずですが、愛憎半ばする奇妙な感情があったのかもしれません。
そのエリザベス1世は生涯結婚せず、子を遺さずに他界しました。彼女の死後、メアリ・スチュアートの息子ジェイムズ6世が、スコットランド王のままイングランド王ジェイムズ1世として即位します。それは近代に栄華を極めるグレート・ブリテン連合王国成立への第一歩でした。
こうしてメアリ・スチュアートの血は存続しました。以後のイングランドおよびスコットランドの王は、すべてメアリ・スチュアートの子孫なのです。
動乱の中に生まれ、奔放な少女のように生きた幼女王メアリ・スチュアートは、現在ウェストミンスター寺院で永遠の眠りについています。
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