男性の活躍が多い戦いの場において、女性ながら勇敢に戦う人物への二つ名があります。
「ジャンヌ・ダルク」です。
この、フランスの英雄であるジャンヌ・ダルクの名を冠する女性がインドにもいます。
インドの小王国だったジャーンシー王国の王妃、ラクシュミー・バーイーです。
かつて「セポイの乱」とも呼ばれた「インド大反乱」において、自らも剣をもち白馬にまたがり、イギリスと決死の戦いを繰り広げた美しき王妃ラクシュミーは、なぜ戦場に立つに至ったのでしょうか?
ヒンドゥー教の美の女神の名をもち、「インドのジャンヌ・ダルク」とも称されたラクシュミー・バーイーの生涯を追います。
目次
回り始める運命の輪、15歳の花嫁ラクシュミー
19世紀、広大なインドはイギリスに植民地化されていました。もっと言えば、イギリスの一企業である東インド会社に、インドのほぼ全域を軍事的に掌握されていたのです。
ラクシュミー・バーイーが生まれた年は定かではありません。
彼女の父はマラータ同盟につらなる貴族の出身でしたが、イギリスに敗れ貧しく暮らしていたといいます。貴族の娘として産まれたラクシュミーは、はじめガンジス川の聖名にあやかりマナカルニカと名付けられ、マヌーと呼ばれました。
ある日、田舎で静かに暮らしていたマヌー(ラクシュミー)に転機が訪れます。
15歳の時、旧マラータ同盟の王国のひとつジャーンシーの王に、花嫁として迎えられることになったのです。
結婚を機にマヌーはラクシュミー・バーイーと名前を改めました。
この時、新郎のガンガーダル・ラーオ王は40歳、25歳の年の差婚です。ラクシュミーは後妻としての結婚でしたが、これには理由がありました。
実は、ジャーンシー王国は取り潰しの危機にあったのです。実質的なインドの支配者であった東インド会社はインドの数有る王国に、ある条件を突きつけていました。
直系の後継者のいない王国は廃絶し、会社政府がその領土を併合するというものです。
「失墜の原理」として悪名高いこの条件を退けるために、ラクシュミーは先妻との間に子どものなかった王に嫁ぐことになったのです。
結婚から9年後、ラクシュミーは女児を出産します。
領土併合をまぬがれ、祝賀ムードは大変なものでしたが、残念ながら子どもは3ヶ月で夭折し、失意の王もその2年後に病没しました。残されたのは王妃ラクシュミーと養子に迎えた5歳の少年だけでした。当然イギリスは、このジャーンシー王国に目をつけます。
ラクシュミーとイギリスとの戦いは、インド大反乱の4年前から始まっていたのです。
ラクシュミーは反英派・親英派? 命運を決めた虐殺事件
ジャーンシーの統治権をラクシュミーにという王の遺志は、イギリス側に黙殺されました。もちろん直系でない養子への王位継承も認められず、1854年3月には運命のジャーンシー併合命令が届きます。
ラクシュミーは「我がジャーンシーは放棄せず」とし、イギリス本土にも特使を送り王国の存続のために動きます。
しかし、イギリス側には交渉しようという気はなく、抵抗むなしくジャーンシー王国は併合され、王妃ラクシュミーの軍隊も解体を余儀なくされました。ジャーンシーの城には、東インド会社の軍隊が駐留することになりました。
失意のラクシュミーには、城を出る道しか残されていなかったのです。
事態は1857年、インド大反乱の年に動き出しました。
メラートのシパーヒー(インド人傭兵)決起の一報が、ラクシュミーの元に届いたのです。そして、インド北部、中部と次々に武装蜂起が相次ぎました。イギリスへの反旗が翻り始めます。
当初、ジャーンシーの駐留部隊のシパーヒーはこれに同調しなかったものの「決起なきはカーストから追放」という秘密通告の流布により、ジャーンシーのシパーヒーたちも、武装決起に呼応します。
イギリス人たちは家族をつれ、ラクシュミーのかつての居城ジャーンシー城に立てこもりますが、身の安全を条件に降伏することになりました。
ところが、イギリス人捕虜たちは反乱軍の一存で虐殺されてしまいます。
この事件が、のちのラクシュミーの命運を決めたと言っても過言ではありません。
ラクシュミー自身は、実は親英的なスタンスであったといいます。ラクシュミーはこの武装決起が成功するとは考えておらず、この騒動の仲介役となることで、自身の統治能力と英国への協力的な立場を見せ、王国再興を目標にしていたと考えられています。
しかし、ラクシュミーの望みとは裏腹に、この反乱が彼女を戦場へと導くことになったのです。
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決意の出陣、ラクシュミーの遺した独立への灯火
ラクシュミーは、今後反乱に関与せず治安の回復に努める旨の書簡をイギリス総督に送ったものの、すでにラクシュミーの責任を問うのは避けられない状況に陥っていました。
イギリスの敵対勢力と目されたことで、ラクシュミーは東インド会社との和解をついに断念しました。
ラクシュミーは戦いを決意します。
反英派を後ろ盾に、男性ばかりでなく多くの女性をも兵士としてまとめ上げ、親英派の近隣都市からの派兵を二度にわたり打ち破ることに成功したのです。砲手・兵士としても活躍する女性兵の姿にイギリス軍も舌を巻いたといいます。
ラクシュミー体制下のジャーンシーは、民主的で身分差別の緩い国として成立しました。当時として、かなり進歩的な体制の国だったといえるでしょう。
ラクシュミーの宿敵、サー・ヒュー・ローズ少将がジャーンシー城に迫ったのは1858年のことです。ローズは有能な司令官でしたが、ラクシュミーの籠城戦に苦戦を強いられます。
しかし幾多の苦闘の末、イギリス軍が総攻撃を開始し壮絶な市街戦となりました。自ら剣を手にして奮戦したラクシュミーは、白馬を駆って城から落ち延びます。
その姿は鎧と剣を身につけ拳銃を手にして、養子の少年を背負うという勇ましい姿であったと伝えられています。
落ち延びた先の都市カルピーにも宿敵ローズの手は及び、ラクシュミーは敗走を重ねます。反乱軍は、膨大な武器と弾薬を補充し一度は息を吹き返しますが、イギリス側の猛攻はやみません。拠点にしたグワーリヤル城にて最期の決戦となりました。
ラクシュミーは最も防備の手薄な城の東の守備を受け持ち、砲撃をかいくぐりながら部下を先導し戦ったといいます。短髪に騎兵の服をまとい、双剣を振るう勇敢な姿で一度はイギリス部隊を退けながらも、ついにラクシュミーは敵の砲弾で致命傷を負い、戦いの中で落命しました。
いつしか「インド大反乱」の象徴となっていたラクシュミーの戦死により、この一斉蜂起はインド側の敗北として静かに幕を閉じたのでした。
インド大反乱は、初めての大規模な「インド独立戦争」の側面を持っていました。
事件を通じて、インドの人々は自分たちがイギリスの圧政の下に苦しんでいるのだという共通認識を持ったのです。
インドはこのあと、約100年をかけて真の独立にたどり着きます。
そのきっかけを作ったとも言えるインドのジャンヌ・ダルク、ラクシュミー・バーイーは民族独立の精神的象徴として今も愛されているのです。
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ライターからひとこと
宿敵だったイギリスのヒュー・ローズはラクシュミーの奮戦を賞賛し、独立後のインドの初代首相ネルーも、彼女の遺した功績を讃えています。インドの各地にラクシュミーの銅像も残されているようですよ。美貌ばかりか、カリスマ・戦術的な部分においても頭一つ抜けた存在であったことが今回学べました。一王妃であった彼女が一体どうやって、実戦の知識を身につけていったのでしょうか。今も敬愛されるインドの英雄ラクシュミー・バーイー、興味深い人物ですね。