広大な植民地を持ち、長期にわたって続いたローマ帝国。その繁栄を支えたのは、パンをはじめとする食糧の配給制度でした。
『図解 食の歴史』(高平鳴海 著)では、中世ヨーロッパを中心とした西洋世界の食事情について、文章と図解でわかりやすく解説しています。今回はその中から、ローマ軍とローマ市民の食糧事情についてお話します。
目次
1日1キロも配給! ローマ軍兵士のパンと食糧
ローマ帝国は度重なる遠征によって広大な植民地を保持していましたが、戦時下では、基本的にローマ軍兵士全員に食糧が支給されていました。時代や遠征地によって異なりますが、兵士たちは水に浸して食べる乾パンか、無発酵の平らなパン、または麦粥などを食べています。配給されるパンの量は1日あたり800グラムから1キロほどもありました。
指導者たちは兵士の食事について、様々な工夫をしています。
たとえばユリアヌス帝(在位361年頃~363年)は兵士と同じ食事を取ることで、兵士たちの士気を保とうとしました。
また共和制ローマ期の軍人スキピオ(紀元前236年頃~紀元前183年頃)は兵士に焼き串と鍋を支給し、朝は未調理の食材を立ったまま食べ、昼は肉を串焼きにするか鍋で煮て食べるよう命じています。さらにスキピオは、パン屋が焼いたパンや火の通った食べ物の販売も禁止しました。
こうした命令は、戦争中の浪費を少しでも減らすためのものだったと考えられています。
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古代ローマの食文化はローマ軍の遠征がつくった
ローマ軍の遠征のおかげで、ヨーロッパ各地に様々な動植物などの食材が拡散されました。
たとえばカエサルはブリタニア(現在のイギリス)に駐屯するローマ軍兵士のために、ブドウ、クルミ、イチジク、オリーブ、ニンジン、レンズマメ、セロリ、梨、桃、フェンネル、コリアンダーといった数多くの植物を移植させています。これらのうち気候に合った多くの農産物は現地で育つようになりました。
ウサギやキジといった鳥獣類も家畜化され、植民地に持ち込まれた結果、ブリタニアだけでなくヨーロッパ各地に根付いています。
逆に、ヨーロッパ各地の植民地からローマへと運ばれた名産品もありました。たとえばブルターニュ(現在のフランス)からはカキが、トルコからはレタスや魚が、モロッコからはガルム(魚醤。調味料の一種)がローマへともたらされ、ローマ人の食卓にのぼりました。
またシリア産のスパイス、ベルギー産のハムなどもローマへと伝えられています。ローマ軍兵士やローマ人たちはこうした名産品を得る代わりに、植民地に灌漑(かんがい)技術やローマの文化を伝えました。
元々、ローマの地元で作れるものは小麦とワインとオリーブしかありませんでした。ローマの食文化を豊かにしたのはローマ軍の遠征と、こうした植民地の特産物だったのです。
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ローマ軍兵士だけじゃない 市民にもあったパンの配給
戦時中のローマ軍兵士には食料の配給がありましたが、ローマでは一般市民にもパンの配給が行われています。
ローマ帝国は植民地から莫大な税収を得ていたため、市民にパンを配給するだけの財力を持っていました。また当時は、政府が市民の生活を保障するのは当たり前だとも考えられていたため、パンの配給という制度があったのです。
初期の頃のローマでは麦粒がそのまま市民に配給されていたといいます。市民はこれを粥にするか粉に挽きパンにして食べていました。
その後配給はパンに変更となります。
ローマは豊かな社会でしたが、植民地が拡大し奴隷が増加すると、市民の働く場を奪うようになったため、自由市民は労働できる場所を失い、生活に困るようになりました。
当時の貧民は配給のパンや、スポルトゥラ(貴族の贈り物)で何とか食いつないでいたといいます。
川や海が近ければ自由に漁をして魚を手に入れることもできましたが、狩りが許されているのは自由市民だけだったため、肉は誰でも食べられるわけではありませんでした。
やがて3世紀以降になると、パンに加えて本来は生活必需品ではない豚肉や油、ワインも支給されるようになります。こうした配給品の増加は、議員や皇帝の人気取りのためや、首都の治安を安定させるために行われました。また北方のゲルマン人の食習慣がローマに浸透してきたためという側面もありました。
富裕層は貧民や奴隷に引き続き施しを行いましたが、時代が進むとインフレが進行し、ローマは経済的に行き詰まるようになります。こうしてローマは衰退し、滅亡への道をたどることとなったのです。