2020年東京オリンピックの年の大河ドラマは「明智光秀」です。
群雄割拠の戦国時代を彩るプリンセスは数多く、美女として名高い明智光秀の娘ガラシャ夫人や織田信長の妹お市の方などは特に有名ですよね。お市の娘たち、お初・茶々(淀殿)・お江を思い浮かべる人もいるでしょう。
織田・豊臣・徳川の日本の覇権を争った三家の内、織田家と徳川家二つの血を受け継ぐ筋金入りのプリンセスこそが「千姫」です。その上、嫁ぎ先はあの豊臣秀頼ですから日本の歴史の証人ともいえますね。
そんな千姫には稀代の淫婦だという噂もあれば、徳川と豊臣のために尽力した賢い女性という評価もあるといいます。
果たして、千姫とは一体どんな人物だったのでしょうか?
目次
「織田」と「徳川」ハイブリッド・プリンセス千姫
千姫は、徳川二代将軍の秀忠の長女として生まれました。母のお江は織田信長の妹お市の方の娘ですから、千姫は織田家と浅井家の血も引いています。普通であれば蝶よ花よと乳母日傘に育てられる姫君であったはずでした。
しかし千姫の数奇な運命は、生後間もない頃から徳川家の政略のために動き出します。
2歳の頃には、太閤秀吉の継子である豊臣秀頼との縁組が決まっていたのです。これは病床にあった秀吉と祖父の家康との間で約束されたことでした。秀吉の死後、天下を狙う徳川家でしたが露骨に豊臣家を刺激しないよう秀頼と千姫の婚姻という約束を果たす必要がありました。
こうして千姫はわずか8歳で父母と別れ大阪城の秀頼と結婚することになりました。
千姫と夫の秀頼は名ばかりの夫婦だったという説もありますが、ふたりは大変仲睦まじく千姫の成人の儀式の際には
しかし千姫の大阪での平穏な日々は長くは続きません。慶長19年(1614年)に大阪夏の陣が起こると、その翌年に大阪冬の陣が続きます。家康は豊臣家を滅ぼしにかかったのです。
大阪城の落城目前、千姫は秀頼母子の助命嘆願のため城を出ます。徳川家康も孫娘のことは気にかけていて救い出すように触れを出していました。このため、千姫は無事に家康の本陣にたどり着きました。
しかし、千姫の願いむなしく秀頼と淀殿は大阪城内で自刃。豊臣家は滅亡し、千姫は19歳で初めの夫を失ったのです。
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千姫のご乱行は伝説級、淫蕩でわがままなお姫様
徳川の天下のため豊臣に差し出された人身御供、悲劇の姫君千姫。そんなイメージを覆す話がいくつか残されています。
徳川家康は大阪城より千姫を救い出した者に「千姫を嫁にやる」と約束していたというのです。猛火の中から千姫を救い出したのは坂崎出羽守という武将でした。
しかし、千姫は救出の際の大火傷で容貌を損なった坂崎を嫌い、江戸に帰る道中で出会った美男の本田平八郎忠刻に恋をしたというのです。家康も孫娘の言う通り本田忠刻との結婚を許したので、坂崎は面目を失い武士の一分のために憤死したという物語です。
さらに衝撃的なことに「吉田通れば二階からまねく しかも鹿の子の振り袖で」こんな俗謡が江戸の庶民の間では囁かれていたといいます。二番目の夫本田忠刻の死後僧籍に入った千姫は、見栄えのいい若者を見ると住まいの吉田御殿(千姫御殿)の中に誘い入れて淫蕩の限りを尽くし、しまいには殺して井戸に放り込んでしまったとまで伝えられています。
果たして、千姫は本当に悪女だったのでしょうか?
千姫の真実、江戸の庶民のスケープゴート
千姫は秀頼の死後、確かに本田忠刻と再婚しました。しかしそれは、千姫自身の意思によるものではなく、本多家側から嫡男の嫁にと千姫を望んだのが真実のようです。
千姫が嫁いだことで、本多家は10万石から25万石の大名に出世します。二人目の夫となった忠刻との仲も睦まじく、子どもにも恵まれた千姫は20〜30歳までの10年を幸せに暮らしました。
千姫は本多家の隆盛を願い、姫路城の北西の男山に天満宮を建立し西の丸の廊下から朝夕祈りを捧げたといいます。この天満宮は彼女の名を冠した千姫天満宮として今も残されています。
その後、夫の死をきっかけに江戸に戻って出家した千姫でしたが、弟の三代将軍家光にも慕われ、その息子の四代将軍家綱からも深く信頼され続けました。千姫が病に伏せると諸大名が見舞いに登城したといいますから江戸幕府の要人であったことがわかります。
千姫は美しく温和な女性であったと伝えられています。
しかし、豊臣家にあっては秀頼の助命のために一命を掛け、落城の憂き目にあっても秀頼の側室の娘を養女として引き取るなど情が深く芯の強い女性だということが史実から浮かびます。
そうした彼女の性質が、徳川家に戻ってからの大奥での活躍や将軍家光や家綱との深い交流につながったことは想像にかたくありません。
前項でご紹介した「吉田通れば〜」の歌も、実際には豊橋の吉田宿の遊女の様子を歌ったものだと言われています。
徳川の娘として生まれ、豊臣の嫁となり、そして再び徳川将軍に重用された千姫。
しかし、秀頼と死別後すぐの再婚や、強引に滅ぼされた豊臣家への判官贔屓などの要因から庶民には愛されず、千姫のキャラクターは悪役として広まります。
その数奇な運命ゆえに、江戸庶民の権力の反発を表すための人身御供として偽りの千姫像が作られていったと考えられるのです。
激動の人生を生きた千姫は寛永6年(1666年)に70年の生涯を閉じました。
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