2018年の大河ドラマ『西郷どん』が1月からスタートしました。鈴木亮平さん演じる主人公の西郷隆盛の人生模様に注目が集まっていますが、渡辺謙さんが熱演している島津斉彬もドラマの中で重要な役割を担っています。そこで今回は、西郷隆盛に大きな影響を与えた島津斉彬にスポットを当て、その人物像をご紹介します。
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幼い頃から蘭学好き 島津斉彬とお由良騒動
島津家第28代当主であり、薩摩藩の第11代藩主でもある島津斉彬は、文化6年(1809)年3月14日に島津斉興の長男として誕生しました。幼い頃の島津斉彬は、曾祖父・重豪に大きな影響を受けて育ちます。重豪は大の蘭学好きで、文政10年(1827)年には斉彬を連れ、来日した医師・シーボルトを出迎えに行くなどしました。この曾祖父の影響で島津斉彬も蘭学を大いに学び、多くの蘭学者らと交流を持ちます。
ところが重豪は「蘭癖」が過ぎて藩の財政に支障をきたすほどでした。そのため斉彬の父・斉興や筆頭家老の調所広郷(ずしょひろさと)らは、重豪と同じく蘭学好きの斉彬が藩主の座を継げば、藩の財政が再び危うくなるのではないかと危惧します。加えて、蘭学の影響を受けた島津斉彬は革新的な人物でもあったため、保守派であった調所ら藩士たちから嫌われてしまいました。
そんな訳で、島津斉彬は4歳の時から世子(跡継ぎ)として指名されていたにもかかわらず、40歳を過ぎても藩主になれなかったのです。
さらに追い打ちをかけるように、島津斉彬の異母弟で島津久光の母・お由良とその一派は藩内の保守派と共謀し、斉彬が跡継ぎになる権利をなくしてしまおうと画策します。
これに対し斉彬派は、嘉永2年(1849年)、お由良派の家臣暗殺を謀りましたが、計画段階で露見してしまい、切腹13名、遠島(えんとう=島流し)多数という処分を受けることになります。これが俗にいう「お由良騒動」です。
しかし、島津斉彬を高く評価していた幕府の老中・阿部正弘はこの事件を預かり、斉彬を藩主にさせようと働きかけました。こうして嘉永4年(1851年)、島津斉彬は第11代薩摩藩主となったのです。
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名君・島津斉彬 しかしその藩政はわずか7年で終了へ
藩主となった島津斉彬は、火薬や大砲の研究、蒸気船を建造したり、反射炉や溶鉱炉を建設するなどの「集成館事業」を行うなど、大がかりな富国強兵政策をすすめました。中でも島津斉彬の興したガラス工芸事業は品質が高く、現在でも「薩摩切子」としてひろく知られています。
島津斉彬は人材発掘の才能も持ち合わせていました。
当時下級藩士だった西郷吉之助(隆盛)を抜擢して、お庭方役(秘書)として重用したり、大久保利通を御蔵役に就けるなどしています。
また、土佐からジョン万次郎を呼び寄せ、藩士や船大工に欧米仕込みの造船技術や航海術を学ばせたりもしました。
このように、斉彬のとった政策にはすぐれたものが多くあります。しかしそれらが花開く直前の安政5年(1858年)、斉彬はコレラを患い亡くなってしまいました。彼が藩主を務めた期間はわずか7年間で終わってしまったのです。
島津斉彬から久光へ 薩摩藩のその後の話
島津斉彬の死後、薩摩藩は誰が治めたのでしょう?家督を継ぎ、第12代藩主となったのは、島津斉彬の異母弟・久光の子どもの島津忠義でした。しかし忠義はまだ若かったため、実際には久光が藩主の実父として権力を握ることとなります。
文久2年(1862年)、久光は斉彬の遺志を継ぎ、公武合体運動(朝廷と幕府の結びつきを強めることで政治を立て直そうとする運動。尊皇攘夷とは反対の考え方)を推しすすめようと武装兵を率いて上洛します。
しかしこの行動は、内外に混乱を生じさせる結果となりました。
各地の尊皇攘夷派は久光の動きを倒幕運動とみなして京都へ終結します。その中には薩摩藩の者もいたため、彼らを止めようとした久光は、攘夷派の集まる寺田屋に藩士を派遣して説得を試みます。
ところが話し合いは決裂、薩摩藩同士の斬り合いになってしまいました。この事件はのちに「寺田屋事件」といわれ、久光による尊皇攘夷派の粛清だと伝えられています。ただし、あくまで久光は穏便にことを治めようとして、寺田屋に藩士を差し向けたともいわれています。
さらに江戸から薩摩へと帰る途中の生麦村で、久光の行列警護をしていた武士がイギリス人を斬ってしまうという「生麦事件」が起きます。この事件は後に薩英戦争へと発展しました。
その後、藩の主導権は久光ではなく、西郷隆盛や大久保利通ら尊皇志士が握ることとなります。一方、久光は明治の世になっても西洋化を嫌い、鹿児島に籠る日々を過ごしました。そうして明治20年(1887年)、71歳でこの世を去ったのです。