真言宗の開祖といえば「空海」です。弘法大師という諡号も有名ですね。遣唐使として海を渡り「密教」を日本に伝えた偉大な宗教家、空海。彼の残した功績は、没後1000年以上たった今も語り継がれています。様々な伝説や逸話を持つ空海は時を超えて愛され、2018年2月からは映画『空海-KU-KAI- 美しき王妃の謎』も公開されています。
まだ映画を観ていないかたは、空海がどういった人物だったのか知っておくとより物語が楽しめるはず。もう観ているかたも、映画で描かれていた空海とは違った一面を発見できるかもしれません。
空海の伝えた密教の「密」は秘密を意味しています。どうやら、この密教には数々の神秘的な術が伝えられているようです。
天才的な宗教家であったのはもちろん能書家としても知られており、また絵画や文学、土木の分野にも秀で、空海の万能ぶりはかのレオナルド・ダ・ヴィンチを彷彿とさせるほどです。そんな空海は、なぜ密教の伝道者となったのでしょう。
目次
教えは荒海の彼方にあり、空海の求めた密教とは
唐と呼ばれていた中国から空海が密教の教えを持ち帰ったのはご承知の通りです。当時、遣唐使として中国に渡るのは命がけのことでした。空海自身、何度も嵐に襲われながらの航海だったといいます。命の危険を犯してまで空海が求めた密教とは、どのようなものでしょうか。密教は仏教の一派で、起源はインドにあります。その仏教の開祖である
しかし、仏陀の弟子たちは苦しむ民衆のため、毒消しや治癒の呪文などを使い始めました。これが密教の始まりです。雨乞いや、時には反魂に至るまで、密教には様々な
この純密を日本に伝えたのが、「空海」なのです。
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万能の秘訣は秘密の修法? 密教の伝承者「空海」
空海は、奈良時代末期に四国の讃岐に生まれました。幼名を空海は雑密の修法のひとつ、「
そして、31歳になった空海は、遣唐使の一員に選ばれます。当時の唐には、「大日経」と「金剛頂経」の二つの大きな密教の宗派がありました。この二つの密教を共に受け継いでいたのが、空海の密教の師となる「
「君が来ることを長い間待っていた。あなたこそ私が待ち望んでいた、密教を伝えるべき人間だ」
千人の弟子ではなく、初対面の空海に密教の正統を伝えることを恵果は即断したのです。数ヶ月かけて密教を学んだ空海は、密教最高位の阿闍梨(あじゃり)の位を受け、「遍照金剛」という号を授けられます。遍照金剛とは密教の仏「大日如来」の別名です。恵果が、空海を密教にとって重要な人物と捉えていたことがわかりますね。
伝法の全てが終わった時、恵果は空海に八種の仏具を与えたといいます。これこそが、密教の正統を受け継ぐという証でした。こうして密教の正統は発祥の地インドでも中国でもなく、空海の手で日本に伝わることになったのです。
密教で災難を退ける? 空海の救世伝説
密教の僧は、法力の強さで知られています。雨乞いの修法で玄宗皇帝を驚嘆させた僧もいれば、食事ごとに天から食物を取り寄せた僧、また月に観音像を浮かび上がらせた僧侶もいたといいます。当然、密教の正統を伝えた空海にも、伝説的な逸話が多く残されています。密教の修行を終え、日本に帰国した空海の活躍をご紹介しましょう。弘仁元年(810年)にイナゴが大発生した時には、空海が害虫駆除の修法を行うと、野山を埋め尽くすほどだったイナゴが一夜にして消え失せたと伝えられています。そして、日照りが続いた天長元年(824年)には、日本の各地で行われた雨乞いでは全く効果がなかったにも関わらず、空海が真言を唱えると、にわかに雲が垂れ込めて激しい雨が降り出し、干ばつが解消したという逸話も残されています。
また嵯峨天皇が、密教における悟り「即身成仏」の証を見せよと空海に迫った時には、空海が印を結び真言を唱えると、その肌は黄金に輝きだし、宝冠を戴いた頭からは白い光を放ち始めたといいます。その姿はまさに、密教の仏である大日如来のようだったそうです。空海の持つ力の強さがわかるエピソードと言えるでしょう。
しかし、空海は修法だけに優れていたのではありません。弘仁12年(812年)には、讃岐で池の修復工事を行なっています。築造に長い月日をかけた池が決壊し、計画が失敗になりかけたところに姿を現した空海は、地鎮の修法を行うばかりか人々と共に工事を再開したのです。それまで3年の月日をかけても完成しなかったにも関わらず、空海の手により1ヶ月後に池が完成しました。密教の修法だけでなく、空海が最新の土木技術にも通じていた証だといえます。
日本の仏教界のみならず、民衆の生活にも大きな影響を与えた空海の密教真言宗は、高野山金剛峰寺を総本山として今も広く尊崇を集めています。