現在、NHK大河ドラマ『西郷どん』が放送中ですね。
『西郷どん』の主人公である西郷隆盛は明治維新最大の功労者といわれ、大久保利通・木戸孝充と並んで「維新の三傑」とも称されています。浴衣姿で犬を連れている上野公園の銅像や、大柄な体格で薩摩弁を話すことなどで、親しみやすいイメージが広く知られていますよね。
とはいえ、西郷隆盛の実際の生涯をよく知っているという方は少ないのではないでしょうか。
『西郷どん』にはオリジナルの物語が盛り込まれているため、史実を知っておくことで、より作品への理解度が深まるかもしれません。
この記事では、西郷隆盛の歩んできた人生を簡単にご紹介します。
維新を推し進めた西国の雄、西郷隆盛の生涯を振り返ってみましょう。
目次
西郷隆盛の生涯①周囲の人物に恵まれた少年・青年時代
文政3年(1827)12月7日、鹿児島市街を流れる甲突川に沿った下鍛冶町に、後に西郷隆盛となる西郷吉之助は生まれました。西郷隆盛は体格が大きく、正義感が強い少年でした。争いを好まない温和な性格で、口数が少ないという特徴もこの頃から変わらなかったようです。
弘化2年(1845)、西郷隆盛は18歳で群方書役助(収税書記官見習い)になり、以降10年以上もこの仕事に携わったといいます。
西郷隆盛は農政に関する上申を何度も行い、後に藩主に認められるきっかけを作ります。その藩主こそが、名君の誉れ高い島津斉彬だったのです。
安政元年(1854)、西郷隆盛は島津斉彬の参勤に従って江戸に上がり、そこで御庭方に任命されました。これは、当時下級藩士であった西郷隆盛と面倒な手続きを省いて話すことができるようにと、島津斉彬が任命した役職です。
こうして西郷隆盛は島津斉彬の薫陶をうけ、水戸藩藩士で水戸学の学者である藤田東湖、福井藩藩士の橋本佐内などの一流の人物たちとの交流を重ねて人格を磨いていくことができたのです。
西郷隆盛の生涯②入水・流刑から、維新の主役に
ところが島津斉彬の死後、西郷隆盛の境遇は一変します。安政5年(1858)から6年(1859)にかけて、江戸幕府による尊王攘夷派の弾圧事件、安政の大獄が起こりました。西郷隆盛は、親しくしていた尊王派の僧侶である
西郷隆盛と月照は、もはやここまでと錦江湾(鹿児島湾)で入水自殺を図ります。
そのときに残した辞世の句をご紹介しましょう。
『ふたつなき 道にこの身を 捨小舟 波たたばとて 風吹かばとて』
しかし西郷隆盛だけは奇跡的に息を吹き返し、入水の処罰として奄美大島に配流されてしまいます。
その後、同じ薩摩藩士であった大久保利通らの働きにより、西郷隆盛は鹿児島にの地に戻されました。
ところが薩摩へ帰ってきたのも束の間、文久2年、再び流刑に処されることになるのです。
ことの顛末をお話しましょう。
帰ってきてまもなく、西郷隆盛は島津久光の先発として京都へ旅立ちました。
そこで薩摩藩内部に過激な尊王攘夷の動きがあることを知り、彼らを鎮めるべく村田新八らと京都へ急ぎます。
しかし、島津久光は西郷隆盛が過激派志士を煽動していると勘違いし激怒。あろうことか、西郷隆盛らの捕縛命令を出したのです。
捕縛された西郷隆盛らは鹿児島へ送還され、その後、沖永良部島(おきのえらぶとう)に流されてしまいました。
そして、雨風が吹き込んで荒れ放題の牢屋に閉じ込められた西郷隆盛は、その中で数年を過ごすのでした。現在でも、この牢屋は史跡として保存されています。
(「おきのえらぶ島観光協会」http://www.okinoerabujima.info/)
元治元年(1864)年、島津久光は尊王攘夷急進派に説得され、西郷隆盛を再び呼び戻します。
この頃の薩摩藩は、先に説明した公武合体を推し進め、幕政改革の主導権を握ろうとしていました。しかし長州藩をはじめとする倒幕を目論む組織が力をつけてきたことにより、薩摩藩は苦境に立たされていたのです。いま中央政界を支えられる人物は西郷隆盛を置いてほかにない――そして、呼び戻された西郷隆盛は期待通りに中央政界で活躍したのでした。
同志の大久保利通とともに禁門の変と第一次長州征伐戦に参加した西郷隆盛は、幕府の衰えを悟ります。
長州藩と戦いながらも、西欧の列強が日本への浸出を目論んでいるような時勢に、日本人同士が争っているべきではないと考えていたのです。
そうした中、西郷隆盛の言動に注目した坂本龍馬と中岡慎太郎は、薩摩藩と長州藩が同盟を結ぶ道を模索しはじめていました――
(後編へつづく)
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