戦国武将というと勇壮に戦っているイメージがありますが、戦がない時はどんな生活をしていたのでしょう?
『図解 戦国武将』(池上良太 著)では、戦国武将の習慣や価値観、当時の社会背景など、武将をとりまく諸事情について文章と図解でわかりやすく解説しています。今回はその中から、戦国武将の普段の生活、特に住居や病気についてご紹介します。
目次
映画で見たことがあるかも? 戦国武将の屋敷のつくり
戦国武将はどんな屋敷に住んでいたのでしょう? テレビドラマや映画などで、戦国武将の暮らす屋敷の様子を見たことがある方も多いと思いますが、屋敷のつくりについて説明できるという方は少ないのではないでしょうか。そこで、当時、上級武士たちが暮らした屋敷のつくりについてご紹介しましょう。室町時代以前と以後とで、武士の住む屋敷の作りは大きく異なっていました。
室町時代以前では、武士の屋敷は「寝殿(しんでん)造り」といって、公家の屋敷をまねた構造をしています。その具体的な特徴は次の2点です。
・左右均等な作りをしている
・全面板の間になっている
これに対し室町時代に入る頃から、「主殿(とのも)造り」と呼ばれる新しい屋敷が登場するようになりました。主殿造りの主な特徴は次の通りです。
・左右均等にこだわらず、必要な機能ごとに独立した建物を造る
・建物の周りを塀で囲っている
・基本的に板の間だが、主殿などには畳が敷き詰められていることもある
主殿造りの屋敷では、主殿を中心に北側と南側とで屋敷の性質が異なります。
北側はプライベートスペースで、寝室や妻子の住む対屋(たいのや)、台所、家臣の控える遠侍(とおざむらい)といった施設がありました。
南側は接客スペースになっており、主殿、湯殿、茶室などが設けられています。
こうした施設の周りを塀が囲っており、大きな門と小さな門が複数設置されていました。
屋敷の中心である主殿は、北側が武将の書斎スペースである「書院」、南側は訪問客用の接客スペースになっています。接客スペースという性質から、主殿には当時高価だった畳が敷き詰められていることもありました。屋根は茅葺き(かやぶき)や板葺き(いたぶき)です。
庭の端には弓術、乗馬などの練習場所や、倉、便所などが設けられています。庭の中心部分は築山と泉水とが整えられ、見る者を楽しませていました。
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癌に脳卒中 戦国武将を悩ませた病あれこれ
続いては、医療技術が未発達だった戦国時代に武将たちが悩まされていた病についてご紹介しましょう。当時、優秀な医師は朝廷や幕府周辺にしかおらず、地方で大病を患った場合、朝廷や幕府に医師の派遣を依頼するか、祈祷に頼ることしかできませんでした。そのため武将の中には、京医師から技術を学んだ医師団を育成する者や、独自の技術を考案し家に伝える者もいたといいます。
それでは戦国武将たちがかかった病にはどのようなものがあったのでしょうか?
丹羽長秀(にわながひで)は、織田信長や豊臣秀吉に仕えていた武将でしたが、積聚(しゃくじゅう)を患っていたことでも知られる武将です。「積聚」とは癌のことで、長秀には自ら腹を裂き、病巣を取り出した後に亡くなったという逸話が残されています。
他にも、武田信玄や毛利元就、徳川家康や伊達政宗らも癌で亡くなったという説があります。
伊達政宗は疱瘡(ほうそう=天然痘)に感染したことでも知られています。彼は疱瘡が原因で右目を失っており、このことが後の彼の人生に大きな影響を与えました。
高血圧から来る脳卒中や脳出血である中風に悩まされていた武将もいました。塩辛いものを食べて毎日酒を飲むという生活が原因で、上杉謙信の死因もこの脳卒中だとする説があります。
また、謙信や武田信玄らと戦った北条氏康も、最期は呂律が回らず人物の識別も難しかったとされることから、中風で亡くなったのではないかといわれています。
梅毒は当時、唐瘡(とうかさ)と呼ばれ、海外から持ち込まれて武将たちの間で猛威を振るっていました。徳川家康の息子・結城秀康(ゆうきひでやす)が若くして亡くなった原因がこの唐瘡だった他、加藤清正、黒田官兵衛らも唐瘡を患っています。
戦国武将というと、戦場で華々しく散っていったイメージがありますが、実際には病で亡くなった武将も多かったのです。
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