2月3日は節分の日。
「福は内、鬼は外」賑やかな掛け声が家庭や寺社で聞かれる頃です。
節分といえば、マスに入った炒り豆を鬼の面をつけた人に投げつけたり、年の数だけ豆を食べたりする光景をすぐに思い描くことができるでしょう。
この「豆まき」、実は陰陽道に起源があることをご存知でしょうか。
陰陽師の手による祓いの儀式が民間に広まり、現在の「豆まき」の慣習へとつながりました。そこにはどんな歴史が隠されているのでしょうか。
目次
①節分と豆まき〜陰陽の儀式、追儺と散具〜
節分は、陰陽道における重要な祭祀でした。そのため、節分には陰陽道の影響が色濃く残されています。とくに2月の節分は旧暦の大晦日にあたるため、旧年と新年の分岐点であり、新しい年の自分の星を祀って除災招福を願うものでありました。詳しくは後でお話しますが、元々は鬼を払う「追儺(ついな)」と呼ばれる儀式が古代の宮中で行われていました。
その原型は古く、奈良時代の書物『続日本紀』にも記されています。日本国内に疫病が大流行し、大変多くの百姓が命を落としたことがありました。それを受け、病疫を追い払うため大晦日の夜に「追儺」を行ったのが始まりだとされています。
また、同じく陰陽道の儀式である「散供(さんぐ)」は、より豆まきに近い意味合いを持ちます。
「散米(さんまい)」「打蒔(うちまき)」とも呼ばれ、食べ物を撒き散らすことによって下級の霊的存在へ供物を捧げ、それをもって「お祓い」とするというものでした。
平安時代、藤原兼隆が自分の屋敷に中宮の藤原威子を迎え入れる際には、お産を控える彼女のために陰陽師が散供を行ったという記録も残っています。
豆を撒くことで鬼を祓うという考えは、この散供の名残とも言えるのです。
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②節分と豆まき〜儀式と風習、信仰の合体〜
節分とは、暦の中の雑節(ざっせつ)のひとつです。年に4度ある節分は、立春や立冬など季節の始まりの日の前日を指しています。
春分前夜の節分は季節や年の変わり目として大変重要視されており、その流れは現在へも引き継がれています。
この季節の変わり目には邪気(鬼)が生じるとされていたため、節分には前年の厄を払う修祓(しゅばつ)、潔斎(けっさい)を行うことが慣例でした。これが先ほど紹介した追儺です。奈良時代には「おにやらい」とも呼ばれていました。
冒頭でお話したように、追儺と散供は本来別の儀式でした。しかし、市井に伝わるうちに明確な区別がなくなり、やがて一体化していきます。
さらに「やいかがし」(柊の枝に鰯の頭をさして戸口につける魔除け)をも飲み込み、現在の「節分」になりました。その上、干支信仰なども合流して氏子の年男・年女が豆を巻くのも慣習となっています。伝わり方も様々で、地域や神社により追儺か豆まきのどちらか一方しか行わない場合もあります。
陰陽道の儀式に端を発し、たくさんの風習や信仰が集まって現代の「節分の豆まき」が誕生したことがよくわかりますね。
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③節分と豆まき〜鬼退治には594リットル分の豆が要る⁉︎〜
古くは鬼の嫌う桃の木で作った弓を用い、鬼を追い払う行事もあったと伝えられていますが、私たちに馴染みのある炒った大豆を撒いて鬼を追い払う形式は、平安時代に始まりました。実は、この「炒った豆」を使うことにも理由があります。
穀物の霊力が宿るとされる「豆」から芽が出るのは、一見縁起がよくも思えます。とはいえ、拾い忘れた豆から芽が出るのは、祓った「厄」の芽が出ることにほかなりません。
これでは縁起が悪いということで、必ず炒り豆を使うのだそうです。
大豆が広く用いられるようになった理由は「魔滅(魔を滅する)」という意味合いのほかにも「大豆は鬼毒を殺し、痛みを止める」など様々な言い伝えがあります。大豆は厄落としをはじめ、疫病、疱瘡、風邪、いぼに到るまで多くの病除けのまじないにも多く使われていたといいます。万能薬のように見られていたとも、考えられますね。
また、「豆まき」は「豆打ち」ともいい、室町時代の百科事典『壒嚢鈔(あいのうしょう)』には節分の豆まきの起源としてこのような記載があります。
宇多天皇の頃に鞍馬山の鬼が京都に出てきて暴れて困ったため、三石三斗の豆を打ち付けてこれを追い払ったという言い伝えです。
一石(いっこく)は体積の単位で、およそ180リットル。
つまり三石三斗とは、594リットル分もの豆ということになります。鬼を追い払うのにどれだけ大量の豆が必要だったかがわかりますね。
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ライターからひとこと
豆まきのあと歳の数だけ豆を食べる。年齢を重ねると数も多くなって大変です。そんなときには「福茶」はいかがでしょう。沸かした湯に昆布と梅干し、そして大豆を加えていただくお茶です。とても縁起のいいものとされているそうですよ。
お茶でホッと温まって、一年間の無病息災を祈るのもいいかもしれませんね。