戦国大名というと、合戦をイメージする人が多いかと思います。しかし合戦するにはお金がかかりますし、国を治めること、発展させること自体にもお金がかかります。では戦国大名はどのようにして収入を得ていたのでしょう。
『図解 戦国武将』(池上良太 著)では、戦国時代の合戦の話だけではなく、日々の生活や当時の国の治め方を紹介しています。本書を参考にしながら、戦国大名の収入を支えていた徴税の仕組みについて分かりやすく解説します。
目次
戦国大名の収入①-年貢の仕組みは「貫高制」と「石高制」
戦国大名にとって、大きな収入源のひとつが年貢です。大名たちは安定した年貢を取り立てるために、貫高制(かんだかせい)と石高制(こくだかせい)という2種類の徴収方法を使い分けていました。
貫高制とは、農地の面積で年貢の額を決める方法です。目安としては、田んぼ1反(約10a)あたり300~500文、畑1反あたり100文と少しが一般的な課税額でした。
分かりやすく説明すると、1辺が約300mの正方形の田んぼがあったとすれば、現代の価値でだいたい3500円~5500円ほどの税金がかかったということです。
貫高制の特徴は、土地単位で課税するため田んぼや畑で採れる作物の生産量に左右されず、一度課税額が決定したら再び変更されることが少ない点。おかげで収入としては安定しており、統治者側だけではなく、住民側にとっても年貢の把握がしやすく、反発されにくいという利点がありました。
しかし、収入が安定しているとはいえ全体を通して年貢額の水準が低く、十分な税の徴収が行えませんでした。
それとは反対に、石高制では十分な額の税を徴収できるのが特徴です。
石高制は、1反あたりの米の生産量を示す石盛(こくもり)と、土地の面積を示す石高を掛け合わせた「石盛×石高」で年貢を算出します。しかし、石盛にしても石高にしても、ほんとうに正しい情報なのか調査(検地)が必要ですよね。それに加えて、土地の所有者も明確にする必要があります。
戦国時代という動乱の世では、土地の統治者が二転三転することは少なくありません。その反面、農民は同じ土地に長く暮らします。統治者が土地の生産量を調べる検地を行うためには、土地の住民や、その土地を貰った家臣の協力が必要でした。ところが、石高制に移行すると貫高制の時より税収が増えるようなケースでは、住民や家臣が積極的に協力してくれないのです。
実際、石高制を導入できたのはほんの一部の大名家だけであり、その大名家でも、新たに獲得した土地の場合がほとんどでした。
戦国大名の収入②-とりあえず課税! 多種多様な税収
次は、年貢以外の税収をご紹介しましょう。そもそも年貢とは、大名が直接支配している土地から得られる税金だけを指し、家臣に与えた土地から得た収入は含みません。そのため家臣からは、与えた土地に応じた役銭を徴収していました。田んぼには段銭(たんせん)、畑には懸銭(かけせん)、家には棟別銭(むねべつせん)といった役銭が定められています。
この他にも裕福な住人から徴収したり、市場での売り上げにも税金を課したり、軍事費として臨時徴収したりと、税金のために様々な理由が用意されました。
◎関連記事
案外堅実で合理的だった? 知られざる戦国武将の日常
戦国大名の収入③-戦国時代ならではの収入手段
さて、戦国大名の収入は多様な徴税システムに支えられていたことが分かりましたね。ですが、税金だけが戦国大名の収入ではありません。鉱山の運営や明、南蛮諸国といった海外との貿易による利益を収入にしていた国もあります。中には、領国内の住民に借金をさせ、利子を取り立て、収入に当てていたという例も存在します。
また、自国以外からも収入がありました。争いの絶えない戦国時代ですので、他国に戦を仕掛けて降伏させることもあれば、援軍として戦に参加することもあります。この時の礼銭が、そのまま戦国大名の収入になるわけです。
戦国時代の後期まで、戦場では略奪行為や人身売買がおこなわれていました。そうした行為によって収入を得ることもあれば、反対に略奪を避けるために土地の人々が礼銭を支払うこともありました。
◎関連記事
政略結婚や男性同士の恋愛も盛ん 戦国武将の恋物語
本書で紹介している明日使える知識
- 戦国武将はどんなものを食べていたのか?
- 戦国武将の名前の決まりとは?
- 戦国武将はどんな神様を信仰していたのか?
- 合戦にはどれぐらいの費用がかかったのか?
- 戦国時代のお金の単位
- etc...
ライターからひとこと
貫高制は税収としては少なく、金銭的にはそれほど有効とは言えませんでした。それでも貫高制が重宝されたのは、戦になった時に兵士を動員する軍役(ぐんやく)に役立ったからです。軍役では土地の貫高ごとに兵士の数が決められており、一度税収を決めてしまえば変更されない貫高制の特徴と相まって、何人の兵が集まるか計算しやすかったのです。税収と兵役が同程度の重要性で見られていた、戦国時代ならではの年貢制度かもしれませんね。