作者:冴吹稔
異界から現れてバルドランド王国に知恵をもたらした賢者がいた。もと孤児の養女、メリッサは書記の仕事の傍ら、王都で二代目の賢者としての第一歩を踏み出した。
彼女を協力者と見込んで期待を寄せる女伯爵、ウルスラ・リンドブルムは目付け役として家臣の一人フェリクスを王都へ派遣する。
メリッサの兄弟子である特別顧問官ギルベルトもまた、彼女を片腕として師の遺した諸々の課題、難題に対処しようと、メリッサの囲い込みを図っていたからだ。
だがそんな中、王国に思いがけない災厄が海から迫ろうとしていた。
第十二話「森を抜けて」
馬が枯れ枝を踏んだのか、ぴしっと小さな音が響いた。静かな森の中で、それはまるで戦場にこだまする軍勢のどよめきのように感じられた。
森の中を縫って延びる細い道を、フェリクスたちはかろうじて馬に乗ったまま進んでいるのだった。頭上には木々のこずえが天蓋のように覆いかぶさり、昼だというのに薄暗い。
「これはなかなか、馬でさっと駆け抜けるというわけにいかんな……」
今歩いているあたりはもともとは石を敷き詰めて舗装されていた形跡があるが、周辺の木が大きく育つにつれて張り巡らされた根のせいで、足元がひどくでこぼこして進みづらい。
木々の間には薄暗い影がよどんでいるようで、フェリクスは何かがその影の中から自分を覗いているような気さえした。
「うん、うかつに走らせると足を折りかねない……しかし驚いたね、まさか馬具まで支給してくれるなんて」
コンラッドがそう言いながら黒馬のたてがみを撫でた。
伝令が乗っていたこの黒馬は、記録のうえではすでに死んだことになっている。ただただコンラッドの魔法を世間の目から隠したいばかりに、フェリクスは嘘の上に嘘を塗り重ね、カイヤールにもともとつけていた馬具は修理に出したということにしてしまったのだ。
結果、黒馬にはカイヤールの馬具が、カイヤールには伝令用の官給品の馬具がついている。成り行きとはいえ、ていのいい横領である。フェリクスはこの道中、内心で何度も頭を抱えていた。
「宿の手配をしてくれるばかりか、礼金までくれた。よほどこの手紙の届け先が大事と見える」
フェリクスは胴着のポケットを手で押さえた。レンウッド宿場の駐在武官ジャレッド卿に頼まれた用事とは、手紙の配送だった。
礼金はさほどの額ではないが、前渡しというのは破格だ。金だけ受け取って逃げるようなことはしない、と見られたのだろう。伯爵家から拝領した仕立てのいい胴着が、妙なところで効能を発揮していた。
「日暮れが近いようだね。ほら、木漏れ日が金色になってきている」
「ああ。それに風が何だかひんやりしてきた」
配送先はこの森の向こうにある、ダネイヴという小さな村だった。街道からは遠く離れ、一番近い町からでも徒歩では日があるうちにたどり着かない――そんな場所らしい。
「急がないと暗くなってしまうな」
「まあ、焦ることはないさ。暗くなればなったで、村の明かりが遠くから目に付く――鬼火を見間違えたのでなければね」
コンラッドが妙なことを言い出し、フェリクスは振り返ってまじまじと彼を見つめた。
「鬼火だって?」
「魔法があるんだから、鬼火だってあるさ。僕は旅の途中何度も広野で野宿をしたし、そういう怪しい灯火も一度ならず目にした」
「私はそういう物にはまるで縁がないな……話くらいは聞いているが」
夜に野外を歩いていると、不思議な明かりを見ることがあるという。遠目には民家や宿屋の明かりのようで旅人を誘うのだが、うかつに近づいていくといつの間にか沼や崖に近づいてしまい、時に命を落とすような災難に遭うのだ。
「ああいう物は確かに実在するんだよ、慎重に行こう。この黒馬だってそう毎日死ぬような目にあわされるのは嫌だろうし」
コンラッドは当たり前のようにそう語った。それを聞くうちに、フェリクスは先ほどから感じていた奇妙な気配がひどく気になってきた。
「そういえば、さっきからずっと誰かに見られているような気がするんだが」
「ああ、いるね」
コンラッドはそういうと、馬を寄せてきた。そして、フェリクスの耳にどうにか届く小さな声でささやいた。
「そのまま気づかないふりをするんだ。馬をまっすぐ歩かせて、森を抜けるまでわき見をするな」
「それは、盗賊か何か――」
「違う」
コンラッドはほとんどわからないような小さな動作で、首を横に振った。
「あれは昔からいる。こっちに気づかれない限りは、ただ見てるだけだ。だがこっちが気づいたそぶりを見せたら、何をされるかわからない」
「あれ」というのが何なのか、コンラッドは明確に言わなかった。だがフェリクスは背筋にぞくりとくるものを感じて、道連れの言うとおりにした。
しばらく行くとやがて森はまばらになり、行く手には小さな村と、その共有地らしきものが見えてきた。
ダネイヴの村にようやくついたときには、日が沈むところだった。村人に頼んで案内してもらうと、手紙の宛先は村長の家らしかった。
広場のそばにある大きな家をたずねると、どこかジャレッドに似た面差しの、物静かな中年の婦人が二人を迎えた。
「クラウディアさんとおっしゃるのは貴女で? ジャレッド卿から手紙を預かってまいりました」
「兄から? ええ、クラウディアは私ですよ。こんな辺鄙な村まで届けていただいて――お入りになって。もう日暮れですし、今夜は泊まって行かれると良いでしょう」
彼女は二人を招き入れると、テーブルについて香草茶を勧めた。手紙の封を切って読み始めると、次第にその表情が曇っていった。
「三年も便りがないのに急に何かと思えば……あなた方、この手紙の内容はご存知?」
「いえ」
「……知っておいた方がいいわ。夫も呼んできますね」
客間を出て行った彼女は、実直な富農といった感じの中年の男を伴って戻ってきた。それが村長だった。彼を交えて、フェリクスたちはクラウディアが手紙を読み上げるのを聞いた。
――王国にふたたび疫病が流行るかもしれない。ダネイヴは幸い街道から離れていて、人の行き来が少ない。当面人の出入りを止めて、流行の終息を待て。
それがジャレッドからの知らせだった。手紙にはカライスでの船の沖止めと、ホールワード港で旅行者が数人降りていることも簡単に書き添えてあった。
「いや、教えていただいてありがとうございます」
これは大変なことになった――フェリクスは額に手を当ててうつむいた。疫病はたいていの場合、人から人に伝染る、ということは彼も知っていた。
「多分今頃は、街道筋を役人や騎兵が走り回っていることでしょうね。その旅行者たちが大きな町に紛れ込む前に、足取りをつかめればいいですが……」
村長も顔色がよくなかった。
「うちは小さな村だから、ここで採れるものだけでも一冬くらいは何とかなるだろう……森の道に柵を建てて見張りを置くのがいいだろうな。明日、村の連中にも知らせるとしよう」
そうか、とフェリクスは思い至った。遅かれ早かれ情報は一般の人々へと漏れ伝わる。これから先、街道や村々の間の道のあちこちで同じような封鎖が行われるはずだ。これから王都へ向かうにしても、道筋は吟味した方がいいだろう。場合によってはこちらも足止めを食うことになりそうだ。
「なあコンラッド。君、長いこと旅をしてるようだが……裏道には詳しいかな?」
「うん。気分次第で山の中を抜けたり、いろんなところを通ってきたからね。馬の通れるところに限っても、かなり融通をきかせられると思う」
「そうか、それは心強い」
コンラッドと出会えたのはつくづく運が良かった、とフェリクスは思った。森の中でも感じたことだが、この男は自分と違ってこの世の裏側、つまり法や理性の光の届かない部分に通じている。それでいてなお擦れたところがなく、こんな風に大らかに微笑んでいられる。それは稀有な資質と言っていい。
翌朝早く、出発の準備をしているとクラウディアが小さな包みを持ってやってきて、それを二人に渡した。
「これは?」
「村に伝わる疫病の治療薬です。熱や痛み、下痢を和らげるといわれているのですよ。処方も書き留めておきましたので、お役に立てば」
二人は手厚く礼を言って村を後にした。
* * * * * * *
メリッサはしたためていた文書から顔を上げた。メレンハイムの検地について、知恵の書とにらめっこで意見書の草案を作成していたところだ。
「お腹すいたわね……」
また総菜屋に頼んで食べ物を取り寄せてもいいのだが、最近少し運動不足な気がする。
今日は自分で買い物に行こう、ブッチたちの仕事も一人分楽になるだろう――そう思って椅子を立ち、ドアへ向かう。開けようとした途端、向こう側から引っ張られて、体勢を崩しかけた。
「ちょっ、何……!」
ドアの前に現れた人物を怒鳴りつけようとして、それがギルベルトであることに気が付いた。いつになく顔色が悪く、口元がわなないている。どうしたのかと訊く前に、彼の方から口を開いた。
「メリッサ殿……一大事です。フローリエンから疫病が持ち込まれました……いま、ケーニクスハーフェンから早馬で知らせが届いた」