第4回:戦国日本へたどり着いた宣教者イエズス会
目次
前説
これから、宗教団体に関して書くが、その前に、宗教に対する立場を明確化しておきたい。おそらく、私は根っこの部分では、日本的な神道=仏教文化の影響下にある緩やかなアミニズム系の無神論者だと思う。神社や寺院には尊敬の感情をいだくし、神社の厳かな雰囲気は好きだ。海や山では、万物の神霊というものを感じるが、科学もリアルだと思うので、神や奇跡がすべてだとは思わない。本業がゲームデザイナーという異端の生き物なので、世界の神話をドライに見て、神話伝承をネタとして弄んでいることも多い。
『図解 巫女』の際には、出来る限りのリスペクトを込めて書いたつもりではあるが、真面目な宗教者の方には「すいません」と言うしかない。『図解 巫女』の取材の際、某有名神社には丁重に断られてしまったが、自分の執筆した本の名前を見て、まあ、しかたないとも思った。『比叡山炎上』、『真・女神転生TRPG誕生篇/覚醒篇』、『超古代文明』、『クトゥルフ神話ガイドブック』である。広報担当者が危険を感じてもやむをえない。そういう意味で、正面から取材を受けてくださった神社や関係者各位には感謝したい。
宗教が人々の精神生活の中で重要な役目を担っているというのも理解はしている。
高校生の頃、アメリカの田舎町に短期ホームステイをしていたことがあり、ある朝、起きると、家には家人がおらず、外に出ると近所の家もすべて無人で、いつもはうるさい犬の気配すらしないという体験をしたことがある。当時はSFファンだったので、これはあれか、世界人類の全消滅か、自分だけ無人のパラレルワールドに紛れ込むという不条理系SFドラマのような事態に陥ったかと思った。
しかし、小一時間ほどして気づいた。
そう、その日は日曜日だったのだ。
つまり、町の人々はすべて、教会に出かけているのである。
映画などでは知っていたが、なるほど、こういうことかと、カルチャーギャップに感心したものである。
なお、この話には、もうひとつオチがある。
昼頃、教会から戻ってきたホスト・ファミリーになぜ、教会に連れて行ってくれなかったか?と聞いたら、こう答えられた。
「You are a Heretic(君は異教徒だ)」
ああ、全くだ。
宗教の違いを強要しないホスト・ファミリーの優しさであったが、面と向かって「異教徒」であることを突きつけられたのは鮮烈な体験と言えよう。その時は、驚いたが、後になって色々腑に落ちる部分があった。
そういう意味で、私は出来るだけ宗教に関してはプレーンな発言を心がけるし、結局、自分は日本的な神道=仏教混合文化の在家信徒の一人なのだろうと思う。
比叡山炎上からイエズス会へ
2007年に、クトゥルフ神話TRPGのサプリメントとして、『比叡山炎上』を製作した。戦国時代、それも織田信長の活躍する元亀の兵乱を中心に、クトゥルフの邪神の跳梁を扱ったものである。山田風太郎風味を加え、戦国武者を強くしたため、ややクトゥルフ神話TRPG本来の宇宙的恐怖の風味は減ってしまったものの、クトゥルフ神話TRPGと他のファンタジーRPGの架け橋にはなっていると思う。
個人的には、戦国、特に、信長や比叡山回りの事柄をしっかり研究できたのは実に刺激的なことであった。地元の有志に案内され、比叡山をほぼ全山回ることが出来たし、山中ではリアルにホラー体験も出来た。安土から京都へ横断することで、地理的な感覚も得られた。
その際に、比叡山や織田信長の周辺を調査する中で、1549年、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの属するイエズス会について、調べてみたが、この宗派の成り立ちや創始者の存在が興味深いものであった。キリスト教宗派と言えば、博愛と自己犠牲の精神を思い浮かべるが、イエズス会(Societas Jesu)の成り立ちは予想外のものであった。それはまさに「イエスのための部隊」であり、激動の時代に合わせて新たに誕生した先端グループでもあり、その創始者イグナチオ・デ・ロヨラは、元騎士という身の上でありながら、時代を先取りした一種の幻視者で、大胆な活動家でもあった。今回は、戦国時代に日本へやってきたイエズス会の誕生について語りたい。
なお、イエズス会については、以下の書籍が詳しい。
イエズス会 世界宣教の旅 |
イエズス会の歴史 |
イエズス会の思想や修行に関しては、創始者イグナチオ・デ・ロヨラの『霊操』が岩波文庫で翻訳されている。
また、イエズス会は現在も活動を続けている宗教団体(カソリック系キリスト教の男子修道会)であり、現在の宗教活動に関しては、イエズス会日本管区、または、イエズス会によって創建された上智大学のサイトなどを当たるのがよいだろう。
イエズス会日本管区
http://www.jesuits-japan.org/
上智大学 「イエズス会と上智大学の創設」
http://www.sophia.ac.jp/jpn/aboutsophia/sophia_spirit/sophia-idea/spirit-of-sophia/spirit1
イグナチオ・デ・ロヨラという人物。
イエズス会と言えば、フランシスコ・ザビエルがまず、思い浮かべるが、このイエズス会というのは、彼が日本にたどり着く15年前、1534年8月15日に、パリ大学で知り合った神学生が結成した盟約から始まる。彼らはここで、貞潔・清貧・エルサレム巡礼という3つの誓いを立てた。
その中心となったのが、バスク人の神学生イグナチオ・デ・ロヨラ(イグナティウスとも)である。30歳で世俗を捨てた彼はこの時、すでに44歳であったが、マンレサの洞窟にこもり、修行の末に神との遭遇を体験しており、その体験からキリスト教の修行に関する手順をマニュアル化した著書『霊操』はパリ大学で進んでいた人文主義(ヒューマニズム)に影響を与える異才であった。
そもそも、イエズス会に至るロヨラの人生が波乱万丈である。
ロヨラは1491年に、スペインとフランスの国境に近いバスク地方の小領主の息子のひとりとして生まれた。資料によって、8男、11男、12男、13男と異なるが、まあ、多々いた子供の末っ子に近い存在であった。生まれた時の名前はイニゴで、後に自ら名乗るイグナチオ(イグナティウス)に通じる聖人の名前にあやかったものである。その名付け同様に、父親はイニゴを僧侶にしようかと考えていたが、当時はレコンキスタが終わったばかりで、まだ動乱の火種が尽きないスペインである。スペインを支配したカソリック王フェルディナンドとイザベラ女王の時代は終わりかけており、ドイツのカルルは、神聖ローマ帝国の皇帝の座とスペイン国王の座を狙い、フランスではフランソワ1世がイベリアとイタリアへの野心を膨らませていた。若い頃から熱血のラテン系騎士に憧れたイニゴは、武芸を磨き、体を鍛えた。
ロマンの騎士イニゴ
イニゴが16歳の時、父親は彼をアレバロの王室管財人フアン・ベラスケス・デ・クエリャルのところに送り、そこでイニゴはスペイン郷士および廷臣としての基礎を学ぶ。ベラスケスが宮廷の要職にあった数年間の間に、イニゴはイザベラ女王の随員たちと親しく交わり、完璧な作法と気品のある物腰を身に着けた。この時期、イニゴは同時代の文学に手を広げ、騎士道ロマンスを愛読するようになる。14世紀半ばに遡るスペインの騎士道小説『アマディス・デ・ガウラ』などを愛読した彼は、おしゃれで甘美な騎士の恋に憧れを抱くようになった。
この時期、彼が騎士としての恋慕を捧げたのは、叔父のフェルディナンド王の元に身を寄せていた、ナポリ皇太后の娘ホアンナであったとされる。イタリアへの出兵に参加したのは、武勲とともに、彼女への思いがあったかもしれない。
運命の戦場へ
数年後、フェルディナンド王の逝去に伴う政変で、ベラスケスが失脚し、彼の晩年を看取ったイニゴは、1517年、武勲を得られる場所を求めて、パンプローナで近衛部隊を率いていたナヘラ公爵を訪ねる。公爵はスペイン北部国境を守る司令官で、ロヨラ家とも親戚関係にあったので、イニゴは近衛部隊の一員として4年間を過ごす。その多くは平和な時代で、狐狩りや馬上試合、公の雑用をして過ぎたが、1521年、ナバールの廃王を押し立てたフランス軍がスペインへと押し寄せてきた。その激戦地となったのがナバーラの山道である。パンプローナの城砦に世界一の砲兵部隊を有する大軍が迫ったのである。公爵に代わり城砦を指揮していた司令官は降伏を決めたが、イニゴは主君の命令に背くのは騎士道に背くと大反対し、自ら城門で大軍を迎え撃った。その結果、砲弾で右足を砕かれてしまう。彼が倒れた後、城砦は降伏し、フランス軍は彼に簡単な応急措置を施して、ロヨラ城に送り届けた。
残念ながら、この時の雑な応急措置のため、足が変形してしまった。きちんと整復されず、おかしな形の突起が出来て、まともな服ではそれが隠せなかった。片足が完全に短くなっていてアンバランスになっていた。
騎士道ロマンス小説を愛読していたイニゴにとっては、自分が完璧な外見の騎士であることが必要不可欠であった。このような醜い足のおかげで、素晴らしい衣装を身にまとうことも出来ないことをよしとしないイニゴは、足を整復するための再手術を受ける。麻酔技術のない時代に、傷を再度、切り開き、骨を伸ばし、再固定する手術を耐え抜いたが、そこで彼は長き療養期間を必要とした。
信仰への目覚め
手術の後の療養期間、イニゴは読書をするしかなかったが、愛読していた騎士道ロマンス小説は手元になく、代わりに差し入れられたのが、カルドゥジア会士ザクセンのルドルフ著『キリストの生涯』と、ドミニコ会士ヤコブス・デ・ウォラギネ著『黄金伝説』であった。『黄金伝説』は、中世最大の聖人伝集大成のひとつで、その中には、永遠の王イエス・キリストに忠誠を捧げた神の騎士の物語がいくつもあり、イニゴは彼らの勇気に心を打たれた。『キリストの生涯』で、イエスという大いなる教師の存在を再認識したイニゴは、神の騎士としてイエスに仕えることに目覚め、これからの人生を神の愛に捧げる決意をした。そこには、彼を培った騎士道精神に近いものを感じ取っていたのである。
なんとか回復した彼は、エルサレムへの巡礼を決意し、ロヨラを出立、半月以上の旅をして、モンセラートのベネディクト修道院で総告解を行い、世俗を捨てた。その後、巡礼の旅に出る準備として、人目を避けるために、マンレサに立ち寄り、山中で2,3日、時を過ごすつもりであったが、神の導きを感じて、山中の洞窟にこもり、断食などの修行をしながら、1年あまりを過ごすことになる。
イニゴは、騎士時代から変わらず、やると決めたことは極限まで突き詰めてしまう傾向があった。この時、荒行と断食のあまり、何度か死にかけつつも、なかなか心が晴れなかった。やがて、健康を壊してしまい、先輩の僧侶から、断食や告解を辞めるように助言を受ける。最初は納得しなかったイニゴだったが、ある時、それらを辞めてもよいと納得できるとともの、ついに、神の存在を感じ取るに至る。
この時の体験を元に、不必要な荒行を廃して魂を磨き上げる手法をマニュアル化してまとめたのが『霊操』である。邦題は、肉体を体操で鍛えるように、霊魂を鍛える技法という内容を表したものであるが、修行を4サイクル、最大30日の単位にまとめ、さらに、修行者と指導者の間で起こる様々なやりとりまで想定して作られたこの書物は、後に、イエズス会の基本的な教本となる他、キリスト教学に大きな影響を与えることになる。
エルサレム巡礼
マンレサの秘蹟によって目を開いたイニゴは、1522年、エルサレムを目指して旅を再開する。
当時は、オスマントルコ帝国が地中海の制海権を握り、地中海の覇者ヴェネツィアとの間に激しい戦いが続いており、イニゴのエルサレム行きは命がけの冒険であった。船に乗ろうとした前夜に、天啓を受け、別の船に変えたら、最初の船が沈没したという話もある。
すでに、世俗の富を捨てたイニゴは、渡航資金を持っておらず、途中、喜捨や支援を求めての旅であったが、カリスマ性を得ていた彼は各地で説教を行っては貴族の支援を獲得し、多くの船を乗り継いでスペインから地中海を横断し、エルサレムに到達した。
エルサレムで聖地を巡礼し、聖地に骨を埋めようと考えたイニゴであったが、あまりにも熱心に、聖地の状況を見聞していった彼の姿に、エルサレムを支配するトルコ人との間のトラブルを恐れた地元のフランシスコ修道会の助言を受けて、19日間で聖地を去ることになった。イニゴはイエスの足跡が残るとされた橄欖山に何度も登り、イエスの足跡に関して調査した。トルコ人の番人に短剣やはさみを贈って、調査に目をつぶってもらったが、フランシスコ修道会のエルサレム管区長はその調査に気づいて彼を捕らえ、キプロス行きの船に放り込んだのだ。
一から学ぶ
帰りも波乱万丈の旅であったが、1523年、なんとか生き残ってスペインに帰国したイニゴは、自分の信仰心を生かすために必要な教養を得るために、まず、一から勉強し直すことにした。
そもそも、武辺の騎士であったイニゴは教会の基本言語であるラテン語の基礎知識すらなかった。ここでもイニゴの真っ直ぐな性格が突撃を命じた。バルセロナで支援者を得たイニゴは子供たちに混じってラテン語の基礎教育を受けた。
すでに33歳にもなる人物が、子供に混じって一から学び直すという姿は異様な、あるいは、純粋なものに見えた。その姿に感動した支援者の家に寄宿しながら、2年間でなんとかラテン語の基礎を学んだイニゴは1526年、アルカラの大学に入学し、本格的に神学を学び始めるが、多数の授業を取りすぎた上に、信仰を守るための祈りや、使徒としての慈善活動に多くの時間を注いだため、学業はうまく行かなかった。その上、すでに、彼はマンレサの秘蹟を『霊操』という書物にまとめた異才であり、カリスマ性を帯びた説教は多くの人々を魅了していった。それは旧弊な大学指導者のいにそまぬものであり、イニゴは勾留され、宗教裁判にかけられることになる。結果として、無実とされたが、大学の学問を収めるまで、説教を禁じられた。それは宗教者としてのイニゴの活動を否定するものであり、彼はサラマンカの大学に席を移したが、そちらでも同様のことが繰り返され、彼はスペインを出て、パリの大学に向かうことになる。
当時のパリには、多くの大学があり、これらのいくつかの門を叩いて、イニゴは神学を学ぶことになる。同様に、彼の存在に反発した者たちもいたが、やがて、イニゴは、やがて、盟友というべき同志と出会う。
1534年8月15日に、イニゴがパリ大学で知り合った神学生の同志たちとモンマルトルの丘で、貞潔・清貧・エルサレム巡礼という3つの誓いを立てた。この時、最初の誓いに参加した7人の神学生のひとりが、後に日本へキリスト教を伝えることになるフランシスコ・ザビエルである。1506年生まれで、イニゴとは15歳の年の差があったザビエルは、イニゴのロヨラ家と同じように、バスク地方の小領主の出で、その居城ハビエル城はイニゴがいたパンプローナ城砦からほど近い場所にあり、フランスとスペインの領土紛争に巻き込まれ、1517年にスペインに併合された。1523年、イニゴが負傷するパンプローナの戦いを彼は目撃していたと考えられる。
1525年から、ザビエルはパリに留学し、哲学を学んでいたが、後から同室となったイニゴと出会い、神学の道を目指すようになる。
モンマルトルの丘での誓いを交わした彼らは、まだ神学生の集まりに過ぎなかったが、やがて、イエズス会(Societas Jesu:イエスのための集団)を名乗り、教皇への謁見の機会を得て、修道会として承認された。彼らは世界宣教を目指し、まず、エルサレムへ向かおうとしたが、戦争の状況からそれは許されず、ポルトガル王ジョアン3世の支援を受けて、インド経由で、アジアへの宣教を示唆されることになる。
ザビエル、日本へ
教皇に認められたイエズス会はアフリカを皮切りに、世界各地で宣教を進めた。
アフリカでは、反奴隷運動を試みて排斥されたり、会員が殺されたりしたが、諦めず、エチオピアのコプト教徒と教皇をつなごうとしたりもした。残念ながら、政治状況は彼らの主義にはつながらなかった。
アジアへの宣教は、フランシスコ・ザビエルがインドのゴアに向かうことから始まった。インドのゴアを拠点に東南アジアへの道を探ったザビエルは、ここでゴアで洗礼を受けたヤジロウ(アンジローとも)ら3人の日本人と出会い、未知の国・日本へと向かうことになる。
あとがき
イグナチオ・デ・ロヨラの前半生は、400年以上の歴史を持つ修道会の創始者としては、予想外に波乱万丈の冒険譚と言ってよいものであった。その後の神学上の功績も忘れてはならないが、彼の物語はまさにエキサイティングなものとなり、それがザビエルに引き継がれて日本にまで達する流れは注目に値する。
歴史を少し掘るだけで、このようなドラマが見えてくるから、歴史はやめられないのだ。
ワールドクリエーターのためのファンタジーブックガイドシリーズ
第1回:『ディプロマシー』と『幼女戦記』で学ぶ地政学
第2回:地形から始まる古代史展望 ~『アースダイバー』から『ブラタモリ』へ~
第3回:明治維新を人材面から読む:榎本武揚と飯田橋の牧場
第4回:戦国日本へたどり着いた宣教者イエズス会