第3回:明治維新を人材面から読む:榎本武揚と飯田橋の牧場
目次
■前説:甲府にて
7月1日開催の「山梨非電源系ボードゲーム祭り」(略称・非祭り)にゲストで招かれ、ついでに、甲府を観光してきた。ちょうど、伊東潤氏の「武田家滅亡」を読み始めたところだったので、趣深い旅となった。甲府駅のすぐ横にある舞鶴城から甲府盆地を見回した後、甲府駅からバスに乗り、武田の館跡に立った武田神社を参拝した。武田神社は盆地の奥まったあたりにあるものの、武田家滅亡後、秀吉が建設した舞鶴城のように石垣の上に築かれたものではなく、あくまでも屋敷である。
武田信玄は「人は石垣、人は城」と言い残した。
それはよく、甲州の人々を武田家に強く結びつけ、人材こそ最大の防御であるという意味合いと解釈される。それは間違いないが、反面、そう言わずにはおれなかった背景もある。甲府盆地という場所柄がそもそも、防御に適しており、盆地内部で戦う羽目になったら、武田家の命運も尽きたとしか言いようがなかったからだ。さらに、下克上の戦国時代に、多くの豪族、地侍を擁する甲斐において、自分自身を神格化して彼らの忠誠を引き出す必要があった信玄には、最終防衛線として使うには絶望的すぎる地勢を鑑み、城の建設で乏しい資源を浪費するよりも、人を活かした方が役に立つと考えられた。
惜しむらくは、信玄にも寿命があり、政治状況から、後継者レースから外していた諏訪四郎勝頼に死後を託さねばならなかったため、石垣たる人間関係まで継承できなかった。諏訪に追いやられていた勝頼は独自の人脈を作るしかなく、信玄を支えた武田24将をうまく使えなかったのである。
武田家滅亡のきっかけをどこに置くかは、難しいが、織田・徳川連合軍の武田攻めのきっかけは、一族の穴山信君の裏切りであり、彼の破滅を決定づけたもののひとつが、24将のひとりでもある小山田信茂の裏切りであった。長篠の戦いで、多くの宿老が戦死し、信玄体制が完全に失われたことが戦国最強と呼ばれ、信長が最後まで恐れた武田家を滅亡に追いやったのである。
では、滅びた武田の精兵たちはどうなったのか?
彼らの一部は徳川家に拾われ、八王子に入植する。八王子千人同心と呼ばれ、ほぼ農民ながら、ことがあれば、徳川家に恩を返すため、武装して集結することになっていた。このため、江戸時代の平穏の中でも尚武の気風を保ち続け、300年近く後、この人材の中から幕末最強の剣客集団「新撰組」局長・近藤勇と土方歳三が誕生することになるのは、どこか因果を感じるものである。
人材を生かすか、殺すか?
これはワールドクリエーターにとって、見逃せない要素となる。
■五稜郭以降の榎本武揚
『近代日本の万能人 榎本武揚』という本がある。榎本武揚という幕末から明治にかけて活躍した人物の評伝である。
榎本武揚、というと、一番有名な話は、大政奉還後、江戸幕府最後の海軍司令官として新政府軍に反発、戦艦を奪って脱走、五稜郭で新政府軍と戦ったというものでしょう。新撰組関係の物語であれば、最後に出てきて、土方歳三に死に場所を与える役割ですが、彼自身は、土方の死後、降伏し、生き残ったどころか、新政府に出仕して北海道開拓、外交交渉、殖産興業、公害対策などに大活躍することになる。
では、なぜ、五稜郭の反乱軍の頭目でありながら、彼は死なずに、新政府で重用されたのか?
■飯田橋の牧場
飯田橋駅でJRを降りて、九段下方向へ向かう道を歩いていると、唐突に北辰社牧場跡という歴史記念碑に出会う。この東京のど真ん中、お堀からそう遠くもない場所で牧場跡とはいかなることなのか?
実は、明治の初め、榎本武揚が新しい飲み物である牛乳を普及するために、この地に牧場を作り、牛乳を生産させていた。最盛期には乳牛が40頭以上いたという。
当時、欧米との交渉が加速する中、欧米文化の導入が日本にとって、緊急課題になっていた。しかし、幕末から戊辰にかけての激動の時代の中で、海外の知識を持つ人材は次々に失われており、正直、人材不足だった。生き残った者の多くは武運を持つ軍事部門の者が多かった。
そんな中、幕府の官費留学生として、ヨーロッパに学び、軍艦とともに帰還した榎本武揚は失ってはならない逸材であり、五稜郭攻略部隊を率いた黒田清隆は彼を惜しんで何度も投降を呼びかけた。その後、榎本は降伏し、何年かの蟄居の後、新政府に出仕させられた。その業績の一旦がこの北辰社牧場なのである。
■新政府の役職を歴任
榎本は北海道開拓使、ロシア公使(初代)、清国公使を務めた後、農商務大臣として産業育成に当たり、日本の殖産振興に大きな功績を残した。ロシア公使時代はロシアとの領土交渉を担当、千島と樺太の交換条約を締結、現在の北方領土確定の基礎を築いた。ロシア公使を退任した榎本は、シベリアを横断して帰国するが、その途上、ブリヤート族を訪れ、彼らから話を聞いている。
帰国した榎本は、海軍卿、皇居造営御用掛を経て、清国特命全権公使となって清国との調整に奔走した。以降、逓信大臣、農商務大臣、外務大臣などを歴任。
明治30年、農商務大臣だった榎本は足尾鉱毒事件の解決に乗り出す。大臣としては初めて現地を視察し、科学者を含む対策チームを組織し、この事件に取り組んだ。日本初の公害問題を扱ったのが、榎本なのである。
結果として、彼は足尾鉱毒事件の責任を取る形で辞任し、政界を引退するが、その後も、工業化学会、メキシコ移民プロジェクトなどで活躍する。
■流星刀
引退の翌年にあたる明治31年(1898年)、白萩隕石の一部を用いて、刀を打つように都内の刀匠、岡吉国宗に依頼、国宗は大変苦労して、長刀2振り、短刀2振りを打った。後に1本の短刀が追加発注されたので、一般には「長刀2振り、短刀3振り」と言われる。ロシア公使時代に見た隕鉄の刀の印象が強かったと思われる。詳しくは榎本自身が書いた「流星刀記事」を参照のこと。流星刀記事 東京地学協会にて公開されたPDF版
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/14/1/14_1_33/_pdf
このようにして作られた流星刀の内、長刀1振りは皇室へ献上され、短刀は1振りが榎本家に残され、もう1振りが富山県科学博物館に寄贈された。残る長刀1振り、短刀1振りの行方は分かっていない。今年6月、榎本家に残された流星刀の短刀1振りが、榎本家より北海道小樽市にあり、榎本武揚が建立した龍宮神社に寄贈された。
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/area/doo/1-0412969.html
流星刀のうち、皇室へ献上された長刀は国家を守る守り刀という意味合いを込めて、鋒両刃造りという古代様式で制作されている。
同じ様式に作られた名高き剣を上げると、平将門を倒したという朝廷の守護の刀「小烏丸」である。「小烏丸」は桓武天皇が熊野の霊鳥、八咫の烏からもらったとされる霊剣で、平将門を倒した刀とされる。以降、朝廷の守護を担う刀として平家の宝となった。壇ノ浦に沈んだと思われていたが、江戸時代に再発見され、明治になって皇室に返還された。以降、明治の元帥刀は小烏丸に似せた鋒両刃造りとなった。
この他、榎本武揚に関する事績は実に多いし、一度、彼の目線から幕末明治を描いた大河ドラマがあればよいのにとも思うほどだ。
彼の才能に関しても、色々語るべきことはあるが、きりがないので、興味のある方は彼の父親や師匠について調べていただけるとよいだろう。
■あとがき
来年(2018年)の大河ドラマは、西郷隆盛が主役で幕末から明治にかけてを描くということであるが、それと同時期を行き、全く別の道を歩んだ男として、榎本武揚を知っていただけるとありがたい。大河ドラマ関連で言えば、西郷、大久保の走狗として走り続けた初代警視総監・川路利良の人生を描いた伊東潤氏の「走狗」もまた注目に値する。ワールドクリエーターのためのファンタジーブックガイドシリーズ
第1回:『ディプロマシー』と『幼女戦記』で学ぶ地政学
第2回:地形から始まる古代史展望 ~『アースダイバー』から『ブラタモリ』へ~
第3回:明治維新を人材面から読む:榎本武揚と飯田橋の牧場
第4回:戦国日本へたどり着いた宣教者イエズス会