織田信長といえば、武将のなかでもひときわ人気の高い英傑です。そして名が通った彼の元には、あらゆる名刀が集まり、さまざまなドラマも生まれています。 今回は『刀剣目録』(小和田泰経 著)から、信長ゆかりの、二振りの打刀をご紹介します。
目次
織田信長から伊達政宗に渡った「燭台切光忠」
まずはじめにご紹介するのは、「燭台切光忠(しょくだいきりみつただ)」です。 区分としては「打刀」で、刃を上にして腰に差す刀です。打刀には、抜く動作と斬る動作が同時に行えるという利点があります。
刃長は二尺二寸、現代でいうと約67cmで、刀鍛冶・越前国長船の光忠の作です。
信長は光忠の作を好んでいたことで有名です。
「燭台切光忠」ももともと信長が所有しており、その後は豊臣秀吉に伝わりました。
慶長元年(1596年)になると、地震で倒壊した山城国(京都府)の伏見城を再建した秀吉に、伊達政宗が御座船、つまり将軍や大名などの乗る船を献上したことで、秀吉から政宗へと下賜されます。
「燭台切」という名前の由来は、あるとき粗相のあった家臣を成敗しようとした政宗が、燭台の裏に隠れた家臣を燭台ごと切り捨てたことから、そう呼ばれるようになったといわれます。
その後、水戸徳川家の徳川頼房が所望したため、政宗は「燭台切光忠」を譲渡します。 鎌倉時代中期に作られたこの刀は、江戸時代を通して水戸徳川家の家宝とされますが、残念ながら関東大震災で焼失してしまい、現在はもうその姿を見ることはできません。
【銘】
不明
【主な所有者】
織田信長 → 豊臣秀吉 → 伊達政宗
織田信長が御膳棚ごと人を斬った国宝「へし切長谷部」
「へし切長谷部(へしきりはせべ)」は燭台切光忠と同じく、区分としては「打刀」であり、刃長は二尺一寸四分、現代でいうと約65cmです。作者は刀鍛冶・山城国(京都府)五条の国重で、彼は相模国の鎌倉の刀鍛冶・国光の子といわれています。 燭台切光忠が燭台ごと家臣を切り捨てた刀なら、こちらは食事を載せる御膳棚ごと茶坊主を斬った刀です。
粗相のあった観内(かんない)という茶坊主が御膳棚の下に逃げ込み、それを信長が御膳棚ごと圧し切ったことから、「へし切長谷部」と呼ばれるようになったといわれます。
天正六年(1975年)、播磨国(兵庫県)の御着城主・小寺政職の家臣である黒田孝高が、信長への臣従を誓うために、豊臣秀吉にともなわれて岐阜城に赴きます。
へし切長谷部は、そのときに、信長から黒田孝高へと贈られたといわれています。
「へし切長谷部」その後は黒田長政のもとへ
黒田孝高が岐阜城に向かったそのころ、播磨国には、安芸国(広島県)の毛利輝元が進出を図っていました。孝高は、主君の小寺政職に信長の味方につくようにと訴えていましたが、その後、小寺家は信長に反旗を翻して没落します。
そして黒田家は独立大名となりました。
信長が自刃した「本能寺の変」の後、秀吉に従った孝高は、九州平定後に豊前国(大分県)中津一二万石を与えられます。
さらに息子である黒田長政は、慶長五年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で徳川家康に味方をし、筑前国(福岡県)福岡五二万石を加増されます。
どうやらそのころ、長政は宝刀鑑定家の本阿弥光徳(ほんあみこうとく)に、「へし切長谷部」の鑑定依頼をしたといわれます。 この刀にはもともと銘は存在しませんでしたが、鑑定家の本阿の花押とともに、「黒田筑前守」という長政を示す銘が残っていることから、この時期に金象嵌が入れられたと考えられるでしょう。
こうして、南北朝鮮時代に作られた「へし切長谷部」は、江戸時代を通じて黒田家の重宝とされました。
その後黒田家から福岡市に寄贈され、現在は、福岡市博物館に収蔵されています。
【銘】
長谷部国重本阿(花押)
黒田筑前守
【主な所有者】
織田信長 → 黒田孝高
以上、「へし切長谷部」と「燭台切光忠」についてご紹介しました。
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