作者:冴吹稔
平凡な現代青年が、異世界に放り出されて幾星霜――
現代知識を用いて辺境の領地を富ませ、賢者として名を成した彼、シンスケ・マガキは、その人生の終わりに二つの遺産を残した。
彼の知恵を書き留めた一巻の書物と、彼の名を継ぐみなしごの少女、メリッサ・マガキ。
シンスケはメリッサに託す。一人の知恵と力では、なし得なかった改革を。世の中の機が熟するまでは、おおやけにできなかった更なる知恵を。
養父の仕事のその先へ進もうとする少女と、彼女を理解し援助の手を差し伸べる若き女領主の、奇妙な戦いが幕を開ける。
第七話「希望の荷車」
窓から差し込む朝陽が顔に当たって、ブッチはそのまぶしさに目を覚ました。
この間までは、こんなことはなかった。地下室や物置では眠りは浅かったが、腹さえ減っていなければどれだけでも寝ていられたというのに。
ブッチは仕方なく身を起こした。尻の下にあるのは洗濯の行き届いた亜麻布のシーツ。枕元にも汚れていないシャツが出してある。戸惑いながらも少年はそれを身に着けた。
「どうも、慣れねえよなあ……」
自分たちの身に起こったことがどうしても信じられない。この一か月というもの、彼と仲間の孤児たちの生活は夢かと疑うほどに変化していた。
相変わらず貧民地区の中ではあるが、彼らが今生活しているのは、人の手が入って綺麗に清掃され、板張りや漆喰などもきちんと整えられた、三階建ての建物の中だ。彼自身の感覚では、これは『お屋敷』と言っても過言ではなかった。
ドアにノックの音。返事も待たずに入ってきたのは仲間の一人、のっぽのガブだ。
「そろそろ行こうよ、ブッチ。配達の仕事がきてる。ほら、帽子持って来たぜ」
「おぅ、ありがとな」
麻袋を解いて円筒形に縫い、赤く染めたガチョウの羽をあしらった制帽。ブッチはそれを真っすぐにかぶった。これから街のあちこちに、できたての総菜を届けるのだ。
丁寧に作られた白い手押し車が、階下の石畳の上に待っていた。傍らには軽装の兵士が二人、護衛についている――そう、王都の正式な兵士が。
彼らはブッチたち孤児組が仕事を終えるまで、不心得な者たちに邪魔され被害を受けることがないよう、目を光らせながら同行することになっている。
「なあブッチ、なんでこんなことになってるんだろうな?」
「そんなの、俺にだってわかんねえって」
言い交しながら石畳を蹴り、手押し車を転がして走る。
裏通りから水路にかかる小さな橋へ、十字路とアーチを通り抜け、市場の喧騒と色彩を目の端にとどめながら。
「そら、そこ濡れてるぞ。転ぶなよ」
尻の尖った水瓶を逆さにしたような兜の下で、兵士の汗に濡れた笑顔が光った。鎧の肩当てが走るにつれて揺れ、がしゃがしゃとけたたましい音が響く。
「最近じゃ夜の兄弟団の連中がさ、広場の掃除なんかしてるらしいぜ? 顔役の『切れ唇』とかは全然見かけなくなったけど」
「うん。俺も聞いてる……たぶんさ、あのねえちゃんとおっさんが、なにかしてくれたんじゃねえかな?」
「……あるのかよ? 俺らみたいなのに、そんなことが」
ガブは疑わしそうに首を振る。だが、ブッチにはそう思えてならなかった。
彼らが駆け込んだのは、あの総菜屋『ゲッセンのお任せ厨房』の店先だった。
店主ゲッセンはすこし途方に暮れたような表情で、総菜の入ったバスケットをいくつか、手押し車の上に載せた。
「そら。代金は受け取り済みだけどな、ひっくり返したりちょろまかしたりすんじゃねえぞ……困るのは俺なんだからな」
「剣提げた見張りが二人もついてて、できるわけないじゃんか……そんなこと」
そりゃそうだ、と大人たちが――兵士も含めてどっと笑う。つられて、ブッチたちも。
「……ちょいと仕入れ値が高くつくようになっちまったが、その分まともな材料が使えるのはいいこった」
「当面は公費から助成が出るのだ。その間に新しいやり方にきちんと合わせるがいい」
仕方なさそうにぼやくゲッセンに兵士の一人がそう言うと、もう一人が相棒の肩をどやしつけた。
「ははっ、こいつめ……そりゃあギルベルト様の受け売りじゃないか」
再び笑いがはじけ、ゲッセンが微笑んだ。
「ほんとにありがてえ。俺も料理人だったんだなってことを、思い出せたぜ……さ、早く行ってきな!」
ブッチはくす、と笑いを漏らした。ついこの間まで、腹を読み合い時に出し抜く後ろ暗い付き合いだったというのに、こうも変わるものなのか、と。
手押し車はやがて、役所の庁舎へとやってきた。総菜を受け取りに出てきたのは、あの時の――そして最近すっかり馴染みのあの『ねえちゃん』――メリッサだ。
「ご苦労様。今日の献立はなにかしら?」
「えっと……『臓物のミートパイとカワカマスのすり身団子』だったかな。バスケットと皿はまた取りに来るよ」
「ありがとう」
夏場に食べるにはちょっと重いしろもののはずだが、メリッサは嬉しそうにバスケットを手に取る。庁舎の中に戻っていこうとする彼女を、ブッチは思わず呼び止めた
「なあに?」
「その……いろいろびっくりしてるんだ。俺たちも、市場も、すごく変わった……なあ、これはやっぱり、ねえちゃんたちがやってくれたことなのか?」
(どうやったら、一人や二人がこんなに世の中を動かせんだ……?)
それが可能な人間が目の前にいる。だとしたら、何もできない自分たちはいったい何なのだ。
自分の頭の中に思いがけず涌いてきた、かすかな怒りのような感情。それに気づいたことはブッチを戸惑わせ、鼻の奥に熱いものをこみ上げさせた。
「……私はきっかけを作っただけ。提案しただけ。ギルベルトさんは自分の使える力を貸してくれただけよ」
眼の前の少年がなぜ目に涙をにじませているのか、メリッサには分からなかった。それでも彼女はゆっくりと、注意深く答えた。
「あなたたちが今見てることはね――町のみんなが抱えてた望みや心配、そして夢を集めて、まとめて……ほんの少しだけお日様の当たるところに引っ張り出したものなの。みんなが望んだことだから、こうして形になったのよ」
ブッチはメリッサをまじまじと見た。彼女の言うことは彼の理解できる範囲を超えていた。それでも、わかったことはある。
(このねえちゃんは、やっぱりすごい人なんだな……)
だが、そこではっと思い出した。
(このねえちゃんも、あのおっさんも、もとは孤児だったっていってた……)
で、あるならば――あるいはいつか、自分たちもこんな風になれるのだろうか?
* * * * * * *
商人ギルドの監督員ハンスは、今日も市場を歩き回っていた。時折首をかしげながら。
(なんで、こんなことになってるんだ?)
首が折れるほど考え込んでも答えは出ない。
王宮特別顧問のギルベルトが商人ギルドに協力を要請してきたのは、ほんの一か月前のことだ。メンツをつぶされ、特権を奪われたいきさつがある。当然、ギルドは拒否するものと思っていた。
だが予想に反して、上層部はその要請を受け入れた。以来、ハンスの日々の仕事もすっかり様変わりした。
小さな荷車を引きながら、最近市場に来るようになった、新参の食品商たちの間を回る。
彼らの商品は、多くは痩せた畑でとれた野菜や、粗末なえさで飼われた鶏や豚だ。市場ではどうしても売れ残る。
ハンスたち監督員には、王都の下級役人が一人ずつ一緒について仕事をしていた。いましも、先に立って歩くその男がハンスを呼んだ。
「おーい、こっちだ! この野菜の目利きを頼むよ」
「分かりました、今行きやす」
赤く色づいた夏野菜の漿果を手に取る。やや小ぶりで、尻が青いままだ。道すがら見た別の荷車のものはもっと大きく、はち切れんばかりに熟れていた。だが、目の前のこれは新鮮で、ヘタの部分まで瑞々しい。
「これは買い入れやしょう……おい、この野菜を全部くれ」
ぽかんと口を開けた商人に金を渡し、その場を立ち去る。こうして買い入れた食材は、割安な総菜となって忙しい人々の腹を満たすのだ。
ハンスたちの前へ、一頭の黒い馬がやってきた。あっ、と目をみはる。馬上にいるのはギルベルトその人ではないか。
ずっと以前、卵売りの女を追い払おうとして逆に彼の剣を鼻先に突きつけられ、脅されたことを思い出す。だが、ギルベルトは馬上から手を挙げて一礼すると、ハンスたちにねぎらいの言葉をかけてきた。
「ご苦労! いい野菜が集まっているようだな、そのまま励んでくれたまえ」
あっけにとられたハンスの脇をすり抜けて、ギルベルトを乗せた駿馬は庁舎の方へ去っていく。