ヴァイキングといえば、北欧の海を荒らし回り掠奪を繰り返していた恐ろしい海賊――そんなイメージをお持ちの方も多いのではないでしょうか。でも、実は彼らは海賊というより武装交易商人だったと言われています。
『海賊』(森村宗冬 著)は、海賊たちの歴史や戦い方、海賊の人物伝などを丁寧に紹介した本です。今回は本書をもとに、ヴァイキングが南下していった歴史について、前編・後編の2回に分けご紹介します。
目次
ヴァイキングは恐ろしい海賊? 武装交易商人?
ヴァイキングは8世紀の終わり頃~11世紀にかけて、スカンジナビア半島(現在のノルウェー、スウェーデン、フィンランド)やユトランド半島(現在のデンマーク)周辺に住んでいた人々の総称です。ノール人(ノルウェー人)、デーン人(デンマーク人)、スウェード人(スウェーデン人)の3部族があり、ときには単独で、またときには複数の部族が入り混じって行動していました。
『アングロ・サクソン年代記』をはじめとする当時の記録には、彼らヴァイキングに襲撃された町の様子が詳細に描かれています。その影響もあり、ヴァイキング=恐ろしい海賊というイメージが定着してきましたが、実際には少し違うということが研究によりわかってきました。 ヴァイキングは、カリブ海の海賊のような犯罪者集団としての海賊ではなく、武装交易商人の群れでした。彼らは掠奪も行いましたが、主な活動は交易で、他に農耕や漁業も行っていました。
彼らが北欧から東西ヨーロッパへと南下しながら交易を行い、時には掠奪もしつつ植民をすすめていった様子は、現在では「民族大移動」だと説明されています。
それでは彼らはなぜ「民族大移動」する必要があったのでしょう? 本書では人口増加による食糧問題、経済変動、ヴァイキング内で起きた権力闘争の3つを理由として挙げています。こうした理由が重なって、ヴァイキングは北欧から東西ヨーロッパへと南下していきました。そのルートは大きく4つに分けられます。
今回の前編ではそのうちの「グレート・ブリテン&アイルランド島ルート」と「ヨーロッパルート」を取り上げます。後編では残りの「ロシア→黒海ルート」と、「大西洋横断ルート」についてご紹介します。
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ヴァイキングの南下ルート①アイルランド
アイルランドは795年以降、ノール人、デーン人によって度々侵攻を受けました。彼らは修道院などを襲い財宝を奪ったり、交易センターを築いたりしました。現在のダブリンやウォーターフォードは、ヴァイキングが建設した交易都市から発展した町とされています。839年にはトルギスというノール人ヴァイキングがアイルランドを襲い支配しましたが、844年にはレジスタンスによって殺されてしまいます。その後も侵攻は続いたものの、ついにアイルランド島が完全制圧されることはありませんでした。
ヴァイキングの襲撃が収束していったきっかけは、1014年にアイルランド上王がクロンターフでヴァイキングに勝利したことだという説があります。
ヴァイキングの南下ルート②グレート・ブリテン島
グレート・ブリテン島に侵攻したのもノール人とデーン人ヴァイキングです。 ヴァイキングの侵攻は8世紀末頃にはじまりました。たとえば793年6月8日、グレート・ブリテン島の東にあるホーリー島を襲撃したヴァイキングの様子が、『アングロ・サクソン年代記』に記されています。ヴァイキングが侵攻をはじめた当初、グレート・ブリテン島のイングランドとウェールズは7つの王国に分かれ争い合っていましたが、ヴァイキングの侵入をきっかけに一致団結し、829年、ウェセックス王エグバートによって統一されます。しかしすぐに統一は崩壊し、9世紀後半にはウェセックス以外の国はヴァイキングに征服されてしまいます。
そこへ英雄が登場しました。ウェセックスのアルフレッド大王です。彼はヴァイキング船を研究し、上部に遮蔽物がないため上からの攻撃に弱いという弱点を見つけました。そこでアルフレッド大王は各地に城砦を建設するとともに、海軍を創設。ヴァイキング船より舷側の高い船を建造し、ヴァイキング船に上から矢や石を浴びせることにしました。
こうした作戦のおかげで、アルフレッド大王は878年にデーン人ヴァイキングに勝利すると、886年には彼らと協定を結び、デーンロウ(デーン人が当時支配していた島の南東部)とウェセックスとの間に境界線を引くことになりました。
アルフレッド大王の死後、10世紀末から再びデーン人を中心としたヴァイキングの大侵攻がはじまります。この頃にはユトランド半島にデンマーク王国が建設されていたため、大規模で組織的な侵攻が可能になっていたのです。 11世紀初頭にはデンマーク王子クヌートがイングランド全域を征服し、デーン朝を開きました。クヌートはデンマークとイングランドの他、ノルウェー、スウェーデン、スコットランドの一部までも支配しましたが、彼の死後支配は崩れ、イングランドの国情は不安定なものになります。
そこへ侵攻してきたのがノルウェー王ハーラル3世”苛烈王”です。さらに、イングランドと苛烈王の戦いの隙をついてノルマンディー公ギヨーム2世がイングランド南岸に上陸すると、1066年、ヘースティングスの戦いでイングランド王ハロルド2世に勝利。ウィリアム1世として即位しノルマン朝を開きました。ノルマン朝はイングランド全域を制圧し、1154年まで続きます。
ヴァイキングの南下ルート③東西フランク王国
続いて、デーン人ヴァイキングが現在のドイツ、フランス周辺へと南下していった様子についてみていきましょう。東フランク王国(現在のドイツ)では、ヴァイキングはライン川上流の都市を中心に侵攻をかけました。しかし891年、ルーヴェン(現在のベルギー)で行われた決戦に敗れてからは、ヴァイキングの活動は活発ではなくなりました。
一方西フランク王国(現在のフランス)では、ヴァイキングの侵攻はしばらく続きます。843年にはナント、845年にはパリの町が襲撃を受け、陥落しました。パリを陥落させたのはラグナール・ロードブログというヴァイキングで、西フランク王国の初代国王シャルル”禿頭”王の軍勢を退けるとパリに入城。王は多額の金と引き換えにパリの町を取り戻しますが、以後、デーン税と呼ばれる莫大な金を支払わされることとなります。
その後もパリはしばしば襲撃を受け続けました。事態が変わったのは10世紀初頭、馬に乗れないほどの巨体の戦士ロロが登場してからです。
ロロは911年、パリ西方の町シャルトルを襲撃します。町の攻略は失敗に終わったものの、西フランク国王シャルル3世”単純王”から、キリスト教への改宗などを条件にセーヌ川下流のノルマンディー地方の割譲を受けました。こうして誕生したのがノルマンディー公国で、イングランドでノルマン朝をひらいたウィリアム1世(ノルマンディー公ギヨーム2世)はロロの子孫です。
さらに後の時代には、ノルマンディー地方出身の傭兵たちによって、イタリア半島からシチリア島にまたがる両シチリア王国が建国されています。ヴァイキングの子孫はついに北欧から地中海へと到達したのです。
アイルランドは完全征服といかなかったものの、ヴァイキングはイングランドではノルマン朝をひらき、西フランク王国ではノルマンディー地方を割譲されるなど、ヨーロッパ各地に爪跡を残しました。こうして彼らはその土地に定着し、溶け込み、やがてヴァイキングの時代は終焉へと向かいます。 後編ではロシアから黒海へと進出したヴァイキングや、アイスランド、グリーンランド、新大陸へと大航海したヴァイキングについてご紹介します。
本書で紹介している明日使える知識
- 「海の民」とフェニキア人
- オデュッセウスも海賊をした
- 近代化による海賊たちの衰退
- 陥落したパリ
- お前たちは悪魔なのか?
- etc...