いまや海外からも大勢のバイヤーが買い付けに来るほど人気の高まっている日本刀。歴史好きの人にはもちろん、最近では女性向けゲームの影響もあって、ますます注目されています。
今回は『刀剣目録』(小和田泰経 著)の中から、ゲームでも人気の「左文字」の名を持つ3本の刀をご紹介します。
目次
家康も握った国宝「江雪左文字」
まずは「左文字」という名についてご説明します。今回ご紹介する3本は、すべて筑前国(福岡県)博多の刀鍛冶、安吉の作です。
安吉の通称は「左衛門三郎」であり、銘に「左」の一字を入れていることから、その一門は「左文字」と呼ばれました。
これが3本に共通する「左文字」の名の由来です。
はじめにご紹介するのは、「江雪左文字(こうせつさもんじ)」です。
江雪左文字は、区分としては「太刀」で、太刀とは長大な刀剣の総称です。
刃長は、二尺五寸七分、現代でいうと約78cmになります。
この刀は、安土桃山から江戸時代初期の武将、板部岡江雪斎が所持していました。
彼は相模国(神奈川県)の戦国大名、北条家の家臣でしたが、天正十八年(1590年)に北条家が豊臣秀吉によって滅ぼされ、その後は徳川家康に臣従します。
江雪左文字は、このころに家康に献上されたといわれています。
その後、家康から彼の十男である徳川頼宣に譲られ、江雪左文字は紀伊徳川家の重宝になりました。
現在では、広島県にある「ふくやま美術館」に寄託されています。
【銘】
筑前州住左
【主な所有者】
板部岡江雪斎 → 徳川家康 → 徳川頼宣
数々の天下人の手に渡った重要文化財「三好左文字」
左文字と名の付く刀剣のなかでも、ひときわドラマティックで、名だたる大名の寵愛を受けた名刀が、この「三好左文字(みよしさもんじ)」ではないでしょうか。区分としては「打刀」で、刃を下に向けて腰に下げる太刀に対し、こちらは刃を上にして腰に差します。
刃長は、二尺二寸一分半で、現代では約67cmです。
室町幕府の管領、細川晴元の側近として仕えた三好政長が所持していたことから、「三好左文字」と呼ばれています。
別名を「宗三左文字」ともいい、これは長政の法名宗三からとられています。
三好左文字は、数々の天下人の手に渡っていきます。
まず、天文五年(1536年)、細川晴元の正室の妹、三条公頼の娘が武田信玄に嫁ぐ際、信玄の親である信虎に贈られました。
当時、三好家の嫡流である三好長慶と対立していた政長ですが、武田家を味方につける目的もあったようです。
翌天文六年になると、信虎の娘が駿河国の今川義元に嫁いだ際の婿引出物として、信虎から義元に贈られています。
それから約23年もの間、三好左文字は今川義元の愛刀となりました。
しかし永禄三年(1960)「桶狭間の戦い」において、義元は織田信長に討ち取られてしまいます。そして信長は、義元から三好左文字を奪い取ったのでした。
このときの三好左文字は二尺六寸の刃長でしたが、信長は二尺二寸一分半に切り詰めたうえ、義元を討ち取ったことがわかる内容の金象眼銘を入れました。
以来、三好左文字は、「義元左文字」としても知られるようになったのです。
信長も三好左文字をいたく気に入っていたようで、天正十年(1582)の「本能寺の変」で、家臣である明智光秀に襲撃されたときに差していたのも、この刀でした。
本能寺とともに三好左文字も焼けてしまいましたが、見つけ出されると、今度は信長の跡を継いだ豊臣秀吉の手に渡ります。
そして「関ヶ原の戦い」の翌年、慶長六年(1601)に、秀吉の子である秀頼から、徳川家康に贈られました。 以来、三好左文字は、徳川将軍家の家宝となったのでした。
こうして激動の人生を歩んできた三好左文字ですが、明治維新後には、徳川家よりある神社に奉納されています。
その神社とは、織田信長を祭神とする京都の「建勲神社」です。
結局、三好左文字は、最後は信長の元に戻ったということでしょうか。
何にせよ、いまでも三好左文字は、かつての主君たちがそうしてきたように大切に保管されています。
【銘】
織田尾張守信長 永禄三年五月十九日 義元打捕刻彼所持刀
【主な所有者】
三好長政(宗三) → 今川義元 → 織田信長
西行の歌から名をもらった重要文化財「小夜左文字」
刃長一尺以下である「短刀」の「小夜左文字(さよさもんじ)」は、戦国時代を代表する歌人・細川藤孝(幽斎)が所持していました。 八寸八分、現代でいうと、約27cmの刃長です。藤孝は『新古今和歌集』に収められている和歌にちなんで、小夜左文字という名をつけたといわれています。 その歌とは鎌倉時代の歌人・西行のものです。
「年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山」 『刀剣目録』p.268
(年をとってまた小夜の中山を越えることがあるなどとは考えもしなかった。それができるのは、命があればこそなのだなあ) 『刀剣目録』p.269小夜の中山とは、遠江国(静岡県)に位置する東海道の峠です。
古来、鈴鹿峠や箱根峠とともに、東海道の難所として知られていました。
ここは通行困難であったこと以外にも、治安が及ばないため、山賊に襲われることも珍しくなく、そういった意味でも難所だったようです。
所持者だった細川藤孝は、もともと室町幕府の幕臣でした。
しかし仕えていた十三代将軍足利義輝が、松永久秀らに殺害されてしまいます。
その後、久秀らに擁立された十四代将軍の足利義栄は、足利義昭を奉じた織田信長に追放され、藤孝は十五代将軍、義昭に仕えました。
義昭と信長が対立すると、今度は義昭を見限って信長の家臣となり、豊臣秀吉・徳川家康に従います。
まとめてしまえばあっさりしてしまいますが、藤孝はこの激動の時代を生きてゆくために、かなりの苦労をしたのではないでしょうか。
彼はそんな人生に対するしみじみとした想いを西行の歌に重ね、人生を共にする刀に難所である小夜の名を与えたのかもしれません。
その後小夜左文字は、藤孝の子、忠興に譲られます。以降は福岡藩主黒田家、広島藩浅野家などに伝わり、最終的には京都の豪商の手にわたっています。
【銘】
筑州住 左
【主な所有者】
細川藤孝 → 細川忠興
以上、3本の左文字をご紹介しました。 現在でも、これらの刀は特別展示などで見ることができるようです。
機会があれば、ぜひ見てみたいですね。
本書で紹介している明日使える知識
- 童子切安綱
- 燭台切光忠
- 博多藤四郎
- へし切長谷部
- 堀川国広
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ライターからひとこと
学校教育などで日本史を見るときには、当然のように人を中心に見ますし、年表などで流れを掴もうとします。しかし刀から見る天下の動きというのもとても面白く、場合によっては歴史を把握しやすくなるのではないでしょうか。本書では他にも日本の名刀を紹介しています。左文字だけではなく、一本一本に宿る持ち主たちの人生のドラマが浮かびあがってきますよ。