『ホール』
(ピョン・ヘヨン 著/カン・バンファ 訳)書肆侃侃房
December 28 , 2018
親愛なるお姉さまへ
いよいよ今年も終わりに近づいてきたわね。わたくし、やり残したことがないか不安だわ。お姉さまは、充実した一年を過ごせまして?
人生ってどこでどう躓くものか、わからないものよね。あの時ああしていればよかったと後悔しても遅いもの。後悔も不安もない、完璧な人生なんて存在するのかしら。
なので、今月はお姉さまに「人生の不安に苛まれてゆく男の物語」をご紹介するわね。
“どういうわけで人生は一瞬にしてひっくり返るのだろう。すっかり崩れ落ちて消え、なんでもなくなってしまうのだろう。そうなるつもりで身構えていた人生を、オギは知らぬ間に手助けしていたのだろうか。”
主人公オギは40代の大学教授。ある日目覚めると、そこは病院のベッドの上だった。オギの運転する車がガードレールに突っ込み、崖の下に転落したの。一緒に乗っていた妻は死亡。生き残ったオギも大怪我により四肢が動かせなくなり、寝たきりの状態に。妻も、健康な肉体も、将来のキャリアもなにもかも無くしてしまい、絶望に浸るオギ。そこに妻の母がやって来る。両親をすでに亡くしており、兄弟もいないオギにとっては残された唯一の家族なの。
物語は、失意の中でリハビリ生活を送るオギが、断片的に過去を回想しながら進んでいくわ。それと同時にオギの介護にあたる義母についても描写されていくの。最初の頃は冷静で思いやりのある女性という印象のあった義母が、だんだんと恐ろしげに変わっていく様子は読んでいてゾッとするわ。
退院したオギは自宅に戻るけれど、依然として身体は自由に動かせないままなので、義母を頼りに生きていくしかない。生前、オギの妻は自宅の庭づくりに精を出していたの。満たされない人生を埋めるがごとく、ほとんど狂気的なまでに。オギの家に居座る義母は娘の意思を継ぐように、庭でなにやら得体の知れない作業を進めていくの。不安を募らせていくオギ。そして徐々に明らかになっていくオギの罪と義母の思惑とは……。
この物語の中でわたくしが特に印象に残ったのは、バビロニアの地図について回想する場面よ。オギは大学で地図について研究しているのだけど、そんなオギが魅了されたのが真ん中に穴が開いたバビロニアの世界地図なの。コンパスで地図に円を描いた際にできた穴だそうなのだけれど、不思議とその世界最古の地図に魅かれたオギは、大英博物館のうす暗い展示室に長らく留まったそうよ。地図に書かれた穴=人生の失われた空白と考えてみると、物語にさらなる深みを与える印象的なエピソードだと思うわ。
人生における躓きは、どこから始まったのだろう。この物語はそんな問いかけに満ちているわ。オギは交通事故がきっかけだと考えているようだけれど、実はそうではなかった事が徐々にわかってくる。そもそもの始まりなど無いのかもしれない。人は常に大切なものを失い続けながら、生きていくしかないのかもしれないと考えてしまうわ。
ところで、『ホール』は2017年度のシャーリイ・ジャクスン賞の長篇部門に輝いた作品。韓国の小説家で初めてシャーリイ・ジャクスン賞を受賞したのよ。シャーリイ・ジャクスン賞は、心理サスペンス、ホラー、ダーク・ファンタジーの要素を持つ文学作品に与えられるアメリカ合衆国の文学賞なの。まさにこの作品にぴったりの賞! 実はわたくし、「シャーリイ・ジャクスン賞受賞」と書かれた帯に魅かれてこの作品を読んでみたのだけれど、大正解だったわ。
ぜひお姉さまも、深淵を覗き込むような不安に満ちた物語の中で、オギと共に人生を見つめ直してみてね。お姉さまが置き去りにしたものの中に、わたくしが入っていませんように。
愛を込めて
アイリス
◇書籍紹介
交通事故により、病院でめざめたオギを待っていたのは、混乱・絶望・諦め…。不安と恐怖の中で、オギはいやおうなく過去を一つひとつ検証していくことになる。それとともに事故へ至る軌跡が少しずつ読者に明かされていくのだが。わずかに残された希望の光が見えたとき、オギは―。アメリカの文学賞、シャーリイ・ジャクスン賞2017。韓国の小説家で初の長編部門受賞作。
(「BOOK」データベースより)
定価:1,728円
発売日:2018年10月
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◇アイリスの夢百夜
第一夜:『アイリーンはもういない』
第二夜:『飛ぶ孔雀』
第三夜:『こうしてイギリスから熊がいなくなりました』
Irisについて
グルノーブルで700年続く名家に生まれ、不自由のない幼少時代を過ごす。
大好きな姉が2年前にイギリスへ嫁いでしまい、アイリスは従者と共に1年間日本へ留学することになった。
遠い島国から、姉へ向けて毎月一通の手紙を書いている。お気に入りの本の感想を添えて……。