【出張版】塩田信之の異類婚姻譚と神話世界への旅
2018 November 2
こちらでは、多くの方が「はじめまして」ではないかと思います。フリーランスでライターをやっている、塩田信之といいます。今回、東雲先生と対談をさせていただいたわけですが、その補足をさせていただくためにスペースをいただきました。『真・女神転生』シリーズの関連書籍が縁となった対談ということで、記事中にも触れていただきました、『真・女神転生IV FINAL』公式サイトおよび『真・女神転生 DEEP STRANGE JOURNEY』公式サイトの連載コラム『神話世界への旅』の出張版とさせていただいております。
>『神話世界への旅』
「異類婚姻譚」に惹かれる理由
人間が人間以外のものと結ばれ、場合によっては子供をもうける。現代の日本社会では常識的にはまず考えられないことだと思います。生物として、子供を作ることが果たして可能なのかといった疑問を持たれる方もいるかと思いますが、比較的多くの方は「おぞましい」といった類の感情を覚えるのではないでしょうか。
相手となる「人間以外のもの」に何者を想定するかによってその度合いは変わってくるかもしれませんし、それを「我が身に起こること」と連想したかによっても大きく変わると思いますが、「おぞましい」と思うこと自体は「タブー(禁忌)」を忌避するごく自然な心の動きだと思われます。
ここでいう「タブー」は、社会通念として「やってはいけない」とされていることだけでなく、もしかしたら人間が人間という種に進化する前から持っている「本能的な恐怖」に類するものも含みます。身体の組成が異なる者同士の交接は負傷に繋がる可能性がありますし、体内微生物の違いは病気をもたらすことになるかもしれません。現代において生体のメカニズムとして子供ができないと理解していても、「人間ではないもの」が生まれてくるかもしれないという恐怖感があります(ちょっと古い映画ですが、 『ザ・フライ』(1986年。デヴィッド・クローネンバーグ監督)などはそうした恐怖心を印象的に描いています)。
我々が意識する「タブー」は、もちろん社会的に忌避される「規範に背く」ものが多いのは確かですが、非常に古くから種族として持ち続けてきた記憶に基づいたものも あります。「異類婚」は、「近親婚」とともに 人類がいわゆる文明を持つようになる前から受け継いできた「原則」に近いものではないかと思われます。
そんなタブーがありながら、現実には「異類婚姻譚」が意外なくらいたくさん世の中にあって、しかも創作された物語としてけっこう好まれていることは、『作家と学ぶ異類婚姻譚』を読んできたみなさんにはご承知のことでしょう。現代の創作には、それを「異類婚」と意識させない物語も少なくありませんが、いわゆる「昔話」のように古くから語り継がれてきた物語に「異類婚」が数多く含まれていることは、物語に触れた人々が「タブーである」ことを意識した上で、なおもその物語を好ましく思っていたことが窺えます。
同じような状況は、世界の他の地域にも少なからず見ることができます。我々にも馴染み深いものとしては、アンデルセンやグリム童話といった幼い頃から慣れ親しんだ物語にも『人魚姫』や『かえるの王さま』といった異類婚に近い作品が含まれていたり、幾度も映画化されて日本でもドラマのモチーフにされた『美女と野獣』をその典型的な例として見ることができます。よく知られているギリシア神話には異類婚を描いた物語が多く、 特に『変身物語』(オウィディウス)に数多くまとめられていますし、それほど有名ではない他のさまざまな地域の神話にも類する物語がたくさん見受けられます。中世のヨーロッパには妖精が人間を誘惑したり結婚したりする、日本の天女伝説によく似た話がたくさんありますし、ウィリアム・シェイクスピアだってそうした伝説を下敷きに『夏の夜の夢』など妖精たちが登場する物語を作っています 。キリスト教やユダヤ教、そしてイスラム教にとっても聖典とされる『旧約聖書』には天使たちが人間の美しい女性に惹かれ地上に降りたと書かれていますし、仏教の経典にだってインド神話由来の天女たちがけっこうたくさん出てきます。
こうした状況は、いったいどうしたことでしょう。タブーなら人々の目に触れる機会をできるだけ減らした方がよさそうなもので、もしかしたらそうした物語の多くは排斥されて、現代に伝わっているのは生き残ったものだけなのかもしれませんが、それにしてもたくさんあるように思えます。
現代まで残った物語は「昔話」や「童話」として子供に読み聞かせるものも多く、タブー感を軽減するようなアレンジが加えられていることが多いのも確かです。例えば『鶴の恩返し』は日本各地にさまざまなバリエーションが伝わっていますが、若者に助けられた鶴が恩に報いるため若者の元を訪れ妻となる「鶴女房」タイプの物語としてもよく知られています。一般に広く流布しているのは「老夫婦の元に鶴がやってくる」パターン で、いわゆる『竹取物語』に近い形で老夫婦のために自らの羽を反物にする鶴の姿が描かれています。『浦島太郎』は『古事記』にその原型的な短文が記され、『丹後国風土記』(逸文)や『万葉集』にも紹介されて現代まで伝わる物語ですが、それら原型とされる形の中では 乙姫が姿を変えていた亀と太郎の異類婚姻譚でした。現在我々が慣れ親しんでいる異類婚を描いていると思われる物語は、物語の古い形が残ったものと仮定できますし、現代において異類婚要素のない物語も、かつては異類婚姻譚であった可能性があります。
地域によって人々のタブー感は変わってくるので一概には言えませんが、こうした状況から想定できるひとつの仮説は、とても古い時代において、異類婚はタブーではなく、むしろ「憧れ」に近い概念だったのではないかというものです。
いわゆる文明が発達する以前、人々が大自然とともに暮らしていたような時代、動物たちは神にも近しい存在でした。そうした古い時代は、天候や災害に繋がる事物 を神聖視して崇めたと考えられていますが、異類婚の相手となる存在の多くはそうした神々やその使いとされる動物たちです。自然の持つ、人間には太刀打ちできない強大なパワーの象徴と捉えられ、その力を得たいという思いが異類婚の概念に結びついたのではないか、と想像できます。世界各地の古い時代の王侯貴族たちには神に見初められ結婚したという「神婚」伝説を作ったり、神と人間の間に生まれた子孫であるとして自らの権威を高めようとすることがよくありました(だから、世界各地の美の女神たち は惚れっぽくて人間の男性を誘惑したりするエピソードが多いのです)。
人間が記述言語 等の高度な文化を獲得する以前であったとも考えられるこうした事柄 は、おおよそ考古学的な遺物で実証することがほぼ不可能です。そんな時代から語り継がれてきたとも考えられる神話の類は手掛かりにはなりますが、神話自体語り継がれていく段階で変化していますし、誇張や創作と見なされて「歴史的事実」にはなりえません。
しかしながら、異類婚姻譚は「歴史」にならなかったからこそ現代においても想像の翼を広げられる領域となりました。きっとこれからも、異類婚を描くことは「タブーを犯す背徳感」にも繋がるひとつのエンタテインメントジャンルとしてたくさんの物語が紡がれていくと思われます。古代と呼べるほどの過去から現在に至るまで、どこからどこまでが異類婚姻譚なのか、どこまでやっていいのか、といったくくりが定められることはありませんでした。ならばこれからも、さまざまな物語を異類婚姻譚として自由に描いてもいいはずです。そのひとつとして、東雲先生が描くところの異類婚姻譚にも大いに期待したいところなのです。
塩田信之(NOBUYUKI SHIODA)
ゲームブックにはじまり、ゲーム攻略本やゲームシナリオ等を手がけるゲームライター。パンタポルタでも取材記事をお願いしたことがある。⇒【レポート】中世風英国パブ『オールド・アロウ』を訪ねて
◇東雲佑先生との対談記事
ゲストと語る異類婚姻譚 ~東雲佑 ✖ 塩田信之~〈前編〉
ゲストと語る異類婚姻譚 ~東雲佑 ✖ 塩田信之~〈後編〉