September 20, 2018
親愛なるお姉さまへ
この夏は狂っていたと思いませんこと?
わたくし、夏のあいだはお屋敷(という名のタワマンの一室)から一歩も出なかったもの。もちろん夏コミの日は例外だけれど。あんな陽ざしの下で正気を保つのは難しいことよ。
とにかくわたくしはとても退屈で、まるでお屋敷が監獄になったみたいに感じています。
だから今月は、「逃げ出す物語」について話そうと思うわ。
“あのころのわたしはわたしではなかった。別のだれかだった。わたしはアイリーンだった――
これはわたしがどうやって姿を消したかについての物語だ。”
物語の舞台は極寒のニューイングランド。24歳のアイリーンは平凡に見える女性。
想像できる? 夜、この街はマイナス15度まで下がって、外気に触れているすべてのものを凍らせてしまうほど。年頃の女性が過ごすのに向いているとは思えない。
アイリーンはアルコール依存症の父親とふたりで暮らしながら、少年矯正施設で働いているの。彼女はそこを「監獄」と呼んでいる。
さっきわたくしは「アイリーンは平凡に見える」って書いたけれど、それは街で彼女とすれ違った人間の言葉だわ。アイリーンは目立たない外見の下に、激しい怒りと不満をくゆらせているの。
彼女を支配しようとする父親を憎み、自分の女らしさを嫌悪して、死の瞬間を想像することで気持ちを落ち着かせる日々。しかも休日はイケメンの同僚の家を観察しに行くストーカーよ。
もっと暴露しちゃうと、アイリーンは体の汚れをできるかぎり我慢するのが好きで、シャワーをほとんど浴びないの。ろくに食事もしないのに下剤を常用してる。オマケに万引き常習犯。
……わたくし、きっとアイリーンとは友達になれません。どちらにしても、お姉さま以外の人間に興味はないけれど。
この小説の語り手は、50年後のアイリーン自身。
故郷で過ごした最後の一週間を振り返って、他愛のない日常を細やかに……そして残酷なほど率直に描き出していく。
ねえ。お姉さまの人生には、細部まで鮮やかに残る思い出があって?
そんな日を思いながら書く文章というのは、ふしぎな優しさが残るものではないかしら。
浅はかな考えや笑い飛ばしたくなるほど愚かな行いが、50年後のアイリーンの眼差しを通すことで「こんなやんちゃもしたわね」って許せてしまうの。
だからこの物語は、アイリーンという一人の女性の日記みたいなものね。
彼女の日常をこっそり覗き見ているよう。いつの間にかわたくし自身がアイリーンなのかも、と錯覚するほど深くまで。その中で、わたくしは美しいレベッカと出会い、信じられない事件に巻き込まれる……そうしてアイリーンと一緒に姿を消す。
最後の一行を読んだときは居ても立っても居られなくて、身ひとつで外に飛び出したわ。
玄関を出たところでお隣さんと鉢合わせしたから、すぐに戻ったけれど(だって胸に大きくアニメキャラが印刷されたTシャツを着ていたんだもの)。
お姉さまもそんな家から抜け出して、わたくしとお母さまのお屋敷へ戻ってこればいいのに。そうなることを願っています。
愛を込めて
アイリスより
Irisについて
グルノーブルで700年続く名家に生まれ、不自由のない幼少時代を過ごす。
大好きな姉が2年前にイギリスへ嫁いでしまい、アイリスは従者と共に1年間日本へ留学することになった。
遠い島国から、姉へ向けて毎月一通の手紙を書いている。お気に入りの本の感想を添えて……。