長きに渡り繁栄を続けたローマにかわり、3世紀頃からローマの文化的子孫として、ヨーロッパ各地を支配したゲルマン人。彼らは肉を食べることでエネルギーや戦闘能力が得られると信じていました。
このように、ゲルマン人は元来、肉を食べることが大好きでしたが、中世ヨーロッパの人々もよく肉を食べていたのでしょうか?
目次
肉のために生活を圧迫した中世ヨーロッパの人びと
まずは中世ヨーロッパの食糧事情について簡単にご紹介しましょう。
■3世紀頃=自給自足
・民族移動などの混乱から、繁栄を極めたローマ文化は一部しか受け継がれず、人々は集落ごとに自給自足の生活を送るように。
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■中世初期=食糧事情良好。農民戦士もふんだんに肉を食べていた
・あちこちに森があり、狩りや放牧で楽に肉を得られた。
・人口も少ないので食糧問題なし。
・農民戦士(庶民。農民と戦士を兼ねていた)たちもふんだんに肉を食べていた。
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■~13世紀=農民は菜食中心の食事に移行
・開拓が進み、人口が爆発的に増加。
・領主は森林と肉の保護を目的に、森を立ち入り禁止にした。
・農民の地位は低下し、菜食中心の食生活へと変化した。
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■13世紀~=庶民の4分の1が餓死
・ヨーロッパはどんどんジリ貧になり、300~400年もの間、人口減少が続く。
・食糧事情は最悪で、庶民の4分の1が餓死したといわれる程だった。
このように中世ヨーロッパの食環境は、時代によって大きな変動がみられます。
中世初期の頃は食糧事情も良く、人々はたくさん肉を食べていましたが、開拓が進み人口が爆発的に増加すると次第に食糧事情は悪化し、庶民を中心に菜食中心の食生活を送るようになりました。
その後、ヨーロッパは一転して人口が減り続けることとなります。貧富の差が拡大し、庶民の食糧事情はますます苦しくなり、大勢の人が餓死したといわれるほどでした。
貴族と農民 身分によって異なる肉の調理法
中世は貧富の差が拡大した時代でしたが、貴族と庶民とでは中世初期の頃から肉の調理方法も大きく異なっていました。
【貴族】
・狩りで仕留めた獲物を網か串で直火焼きに。
・狩りをすることは戦士の誇りであり、肉を焼くことは権力の象徴だった。
・狩りで仕留めた獲物を網か串で直火焼きに。
・狩りをすることは戦士の誇りであり、肉を焼くことは権力の象徴だった。
【農民】
・肉派鍋でゆでて食べる。
・ゆでることで硬い肉もおいしく食べることができ、うまみと滋養が増す、肉汁も損なわないなど利点が多かった。
・肉派鍋でゆでて食べる。
・ゆでることで硬い肉もおいしく食べることができ、うまみと滋養が増す、肉汁も損なわないなど利点が多かった。
貴族たちは季節に合わせてウサギや鹿、イノシシなどを狩っています。冬には鷹を使ってアオサギやツル、カモを狩るという遊びも楽しんでいました。
こうして仕留めた獲物の肉をワイルドに焼いて食べることで、貴族たちは自らの誇りと権威を保とうとしています。
一方農民は実利を取り、鍋で肉をゆでて食べていました。
王侯貴族たちの肉にまつわるエピソード
最後に、中世の王侯貴族たちの肉にまつわるエピソードをご紹介しましょう。
①フランク王国 カール大帝(在位768~814年)
・毎日、焼き串で調理された獣の肉を食べていた。
カール大帝はカロリング朝を開いたピピン3世の子で、生涯で53回も軍事遠征を行った王です。彼は他の料理よりも狩りの獲物を好んで食べたといわれています。
②ヴァロア朝 シャルル6世(在位1380~1422年)
・30人の猟師を抱えるほどの野獣肉好き。
・彼の料理人だったタイユヴァンは30種類以上の野鳥の料理法を残している。
フランス・ヴァロア朝の第4代国王シャルル6世もまた、獣の肉を食べることが大好きでした。
狩りではどんな獲物が捕れるかわからないため、彼の料理人タイユヴァンは実に30種類以上もの野鳥の料理法を書き残しています。
カロリング朝(8~9世紀)の時代には、貴族に対して「生涯肉食禁止」という罰が下されたこともありました。
【「生涯肉食禁止」とは?】
・大失敗した貴族や臆病な貴族に下された罰。
・「武器所持禁止」の罰とセットで下され、貴族身分の剥奪を意味した。
・大失敗した貴族や臆病な貴族に下された罰。
・「武器所持禁止」の罰とセットで下され、貴族身分の剥奪を意味した。
「生涯肉食禁止」の罰は「武器所持禁止」の罰とセットで下されています。この罰を下された者は貴族の身分を剥奪されたも同然でした。
また貴族にとって、大食いであることや大酒飲みであることは、出世にもつながる重要な要素でした。中世ヨーロッパでは、位が高い者ほど食欲が旺盛だと考えられていたのです。
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