ジャンヌダルクといえば、百年戦争でフランスを勝利に導いたにもかかわらず、悲劇的な最期を遂げたことで有名ですが、彼女にはいくつもの伝説的な逸話が残されていることをご存知ですか?
今回は『剣の乙女』(稲葉 義明 著)を参考に、ジャンヌダルクにまつわる栄光と悲劇の逸話を物語風にご紹介します。
目次
救国の英雄ジャンヌダルク、シャルル王太子に謁見す
フランスとイギリスが百年戦争を続けていた1412年1月、ロレーヌ公領の辺境にあるドムレミイという小さな村にひとりの少女が誕生します。羊飼いの家に生まれたこの少女は黒っぽい色の髪に黒い瞳の持ち主で、気立てがよく、優しくて快活なごく普通の少女でした。
少女は13歳の頃、不可思議な「声」を耳にするようになります。
「声」はフランスの守護天使である聖ミカエル、聖カトリーヌ、聖マルグリットの3人の天使のもので、少女に行いを正しくして教会に通い、フランスへと向かうよう命じました。また、男装して処女を守り抜くようにとも戒めました。
「声」はこの後4年間にわたり、少女に囁き続けます。
そして1428年、17歳になった少女はついに声に従うことを決め、フランスへと旅立ちました。この少女こそ、後にフランスを救い英雄となるジャンヌダルクです。
1429年3月、ジャンヌダルクはドムレミイ村から500km離れたシノンの城まで、わずか6人の従者とともにやって来ました。「神のお告げを携えた乙女がやって来た」という噂はあっという間に街中に広まり、城にいるシャルル王太子のもとにも届きます。噂に興味を持ったシャルル王太子は、ジャンヌダルクに引見することを許しました。
50本の松明が赤々と灯る中、シノン城の大広間には300人もの貴族や僧侶が集まりました。伝承によると、シャルル王太子は替え玉をたて、自らは粗末な服を着て群臣の影に隠れていたといいます。しかし、ジャンヌダルクは替え玉に騙されませんでした。彼女は列席する貴族や僧侶の中から会ったこともないシャルル王太子を見つけ出すと、彼の前に跪きます。
「王太子殿下、あなたさまと王国とをお救い申し上げるべく、神さまより遣わされて参りました」
こうしてジャンヌダルクはシャルル王太子の臣下に加わることになりました。
この頃、彼女はこれから起こる4つの重要な出来事を予言しています。その内容は次のようなものです。
・オルレアンの町を包囲するイギリス軍は、ジャンヌダルクの軍によって追い払われるだろう。
・シャルル王太子はランスの町で戴冠式を挙げ、正式に王となるだろう。
・パリの町はシャルル新国王に従うようになるだろう。
・捕虜となっているオルレアン公はイギリスから帰還するだろう。
これらの予言は後に全て実現することになります(半分は彼女の死後ですが)。
また、当時フランスには「フランスは1人の女によって滅び、1人の処女によって救われる」という伝説がありました。ジャンヌダルクの噂を聞きつけた民衆は、彼女こそがこの”救国の英雄”なのではないかと期待したといいます。
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火あぶりにされたジャンヌダルク
シャルル王太子はジャンヌダルクのために、身体にぴったりと合う純白の甲冑を作らせました。この甲冑や衣服の寸法は現代まで残されており、ここから彼女の身長は1メートル58センチほどで、均整のとれた強健な体格だったと推測されています。
シャルル王太子はまた、ジャンヌダルクに旗などの武具や従者なども与えました。この時彼女は、自分の剣はとある教会の祭壇の後ろに埋まっていると言い、その言葉通りに発見された錆びた剣を研いで自分のものとしたといわれています。
ジャンヌダルクは羊飼いの娘でしたが、どこで学んだのか、はじめから馬や槍を上手に扱うことができました。
彼女が戦場に姿を現すと兵たちの士気は上がり、彼女が突撃すれば兵たちは勇んで後に続きます。こうしてジャンヌダルクはイギリス軍を追い払い、あっという間にオルレアンの町を解放すると、ジョルジョ―、マン、ボジャンシーの攻略を次々と成功させ、ランスの町でシャルル王太子が戴冠式を挙げられるよう尽力しました。
しかし、ジャンヌダルクの栄光は長くは続きませんでした。
1430年5月23日、ジャンヌダルクはイギリス・ブルゴーニュ軍に包囲されたコンピエーニュの町の救援に駆けつけますが、戦いに負け、イギリス軍に捕らわれてしまいます。彼女の身柄はまずイギリス軍に引き渡され、その後、イギリス勢力下にあるルーアンの町で裁かれることとなりました。
5か月にわたる裁判は公正なものではありませんでした。死の恐怖に混乱したジャンヌダルクは、用意された改悛宣誓書にサインしてしまいます。
この改悛宣誓書には、「二度と男物の衣服を着ない」という条件が含まれていました。ところが戻された牢屋で見張りの男に乱暴されそうになり、彼女は自衛のためにやむなく男物の衣服を身に着けてしまいます。
改悛宣誓書を破った者に待ち受けているのは死罪です。
1431年5月30日午前9時、ジャンヌダルクはルーアンのヴィユ・マルシェ広場に引き出されると、800人の兵士と多くの市民が見物する中で教会から破門の宣告を受け、火あぶりの刑にされました。胸に木端で作った十字を抱き、情けある修道士が頭上にかざしてくれた十字架を見つめながら、彼女は「イエスさま」と叫び息絶えたと伝えられています。
ジャンヌダルクの遺骸は完全な灰とされ、聖遺物信仰の対象とならぬよう、セーヌ川に捨てられました。ですが彼女の心の正しさを証明するかのように、ジャンヌの心臓はどれほど熱しても燃えず、焼け残っていたという伝説もあります。
ジャンヌダルクが亡くなった後、フランスは彼女の予言通りにパリの町を奪還し、1450年にはノルマンディーの町をもイギリス軍の手から取り戻します。ジャンヌダルクは志半ばにして処刑されてしまいましたが、彼女の行動はフランスを救う道しるべとなったのです。
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