3月3日はひな祭りの日。家におひな様を飾るという方もいらっしゃると思いますが、おひな様の歴史についてはあまりご存知ないという方も多いのではないでしょうか。
『図解 巫女』(朱鷺田祐介 著)では、巫女の仕事内容や神道の儀式など、神社や神道、巫女にまつわる基礎知識を図解入りで解説しています。今回はその中から、ひな祭りについてご紹介します。
目次
ひな祭り歴史①はじまりは平安時代の陰陽道
3月3日のひな祭りというと、十二単を着た美しいおひな様を飾ったり、ちらし寿司などを食べたりする女の子のためのお祭りの日という印象をお持ちの方は多いのではないでしょうか。ですが、実はおひな様を飾るという風習は古代からあったわけではなく、江戸時代以降の比較的新しいものなのです。
それでは江戸時代以前のひな祭りはどのようなものだったのでしょう? ひな祭りは古来、上巳(じょうし、じょうみ)の節句と呼ばれていました。節句とは季節の節目となる日のことで、他にも5月5日の端午の節句や7月7日の七夕の節句などが有名です。
上巳の節句の「上巳」とは、3月最初の巳の日という意味ですが、後に3月3日に固定されるようになります。3月3日を桃の節句と呼ぶこともあるのは、旧暦のこの頃は桃の花が咲く時期だからです。
さて、推古天皇の時代である西暦604年頃に、中国から陰陽五行の思想が日本に伝わると、聖徳太子によって高く評価され、国政に取り入れられるようになりました。この陰陽五行の思想や風水などを起源とし、日本で発展したのが陰陽道です。
平安時代になると、宮廷では毎月のように陰陽師によって祓(はらえ)の儀式が行われるようになります。祓の儀式とは神に祈りを捧げ、穢れを清めて災厄を取り除くための儀式です。
祓の儀式のひとつに、神道の祓の術である中臣祓(なかとみのはらえ)を応用した、七瀬の祓があります。七瀬の祓は、天皇の穢れを金属製(後に木製)の形代(かたしろ)に移し、七瀬(=7つの川原)に祓うというもので、やがてこの儀式が宮中に広まるようになりました。
上巳の日には上巳の祓が行われます。古代中国ではこの日、水辺で飲酒したり不浄を祓い招魂の行事を行う曲水の宴が開かれていました。上巳の祓はこの中国の行事の影響を受けたとされ、平安時代の貴族たちはこの日、陰陽師に祓いをさせ、人形で身体を撫でてそれを川に流したといいます。これが現代にも残る「流しびな」の原型です。
ひな祭りの歴史②江戸時代は豪華絢爛
形代として使われていたひなを、川に流さずに飾るようになったのは、長く続いた戦乱の世が落ち着いた江戸時代以降のことでした。江戸時代初期の頃は、男女一対の内裏雛を屏風の前に飾っただけの簡素なひな飾りが中心でした。やがて江戸時代中期頃になると、ひな祭りの習慣は上方から江戸へ、そして地方へと広まり、武家など身分の高い者ばかりでなく庶民の間にも浸透していくようになります。
それに伴いひな人形やひな道具の種類も増え、18世紀頃になると、しだいにひな段の数が増えるなど、贅沢なひな飾りも作られるようになりました。三人官女や五人囃子といったひな人形が登場し始めたのもこの頃です。
ところが18世紀後半になると、幕府は贅沢を禁止するお触れを出すようになり、ひな人形についても大きなものは作ってはいけないなどと定められるようになります。
そこで考案されたのが、小さくて精巧な「芥子(けし)びな」です。芥子びなはわずか数センチほどの大きさで、幕府のおふれにも反さないことから、庶民の間で流行したといわれています。
ところでおひな様の顔つきが時代や地域によって異なるということはご存知でしょうか。 江戸時代に作られた代表的なものには、大型で切れ長の目が特徴的な「享保びな」や、眼にガラス玉などをはめ込んだ「古今びな」などがあります。これらは顔つきだけでなく、着物の着方や飾られ方なども異なっており、年代や地域による差を感じることができます。
現代でも、おひな様の顔つきや着物、飾り方は時代や地域などにより違いがみられます。家にひな人形をお持ちの方はぜひ飾って眺めてみてください。特に顔つきなどは、お祖母様、お母様の時代のものとは違っているのではないかと思います。
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