ヴィクトリア朝とは19世紀、ヴィクトリア女王が即位していた頃の時代を指します。メイドを始めとする使用人が多く活躍していた時代で、人々の生活スタイルや仕事内容にも大きな変化があった時期でした。
『図解 メイド』(池上良太 著)では、ヴィクトリア朝の頃のイギリスを中心に、メイドの仕事内容や生活、当時の社会の様子などを幅広く解説しています。今回はその中から、ヴィクトリア朝の住宅事情についてご紹介します。
目次
集合住宅から救貧院まで 都市の人々の住宅事情
都市に住む一般庶民は、それぞれの所得に合った住宅を選び生活しています。工場労働者など、ある程度の定期収入がある人々は、ロンドン郊外に建てられた集合住宅に住んでいました。台所、食堂兼居間、寝室など合計4室程からなる住宅で、上下水道も比較的整備されていることが多く、中にはテラスや中庭がついている豪華なものもありました。
より収入が少ない階層が住む貸家は、たいてい1部屋しかない粗末なものでした。床が腐っていることがあったり、下水もほとんど整備されていないなど、生活環境は厳しいものだったといえます。トイレや上水道は共同で、食事の支度は火床のついた暖炉などで行われていました。中には借家の床を勝手に又貸しし、家賃を取っていた者もいたといいます。
定期収入が少なく家を借りられない者たちは、安宿や簡易宿泊所で夜を明かします。部屋の環境は劣悪で、酒を飲まなければろくに眠ることもできない程でした。こうした場所は犯罪者など素性の良くない者のたまり場となることも多く、宿屋の主人から宿賃の代わりに盗品を要求されることすらありました。
気温が0度を下回れば温情により無料で開放されることもあったようだが、宿泊する金が無ければ値段の安い台所の床で過ごすしかなかった。 『図解 メイド』p.44安宿や簡易宿泊所に泊まるお金すら持たない人が最後に駆け込むのは救貧院です。救貧院は19世紀前半に制度化されましたが、「怠け者どもを排除する」という考え方に基づき、わざと劣悪な生活環境につくられていました。
救貧院に入る者は家族と引き離され、男女別に収容されます。なんとか飢えない程度の少ない食事が与えられ、糸を紡いだり岩を砕くといった過酷な単純労働に従事しなければなりませんでした。こうした救貧院での暮らしを当時の人々は地獄だと評しており、自活能力のある者は入りたがりませんでした。
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2種類のタイプがあった農村部の住宅
続いて農村部の住宅の様子をご紹介しましょう。地方ごとに材質などの違いはあるものの、ヴィクトリア朝の農村の住宅は一般的に質素なものでした。持ち家は少なく借家が中心で、屋根は低く、部屋数は1つか2つ程度です。床はむき出しの煉瓦か石畳が一般的で、中には土間になっている家もありました。天井は低く、まっすぐ立つことができるのは部屋の中央部分だけというケースも多かったといいます。
台所用のレンジが設置されていることは少なく、人々は暖炉の火や火床を使って料理を作ります。1つきりのベッドに家族全員で寝ることも多くありました。家具や調度品の数も少なかったといいます。
中には2階を持つ家もありましたが、2階は寝室として使われた程度で、上り下りも縄梯子で行われていました。
農村にはもうひとつ、違うタイプの住宅も存在します。上流階級などの大土地所有者たちによって作られたモデル住宅です。
当時、彼らは自分の所有する土地にモデル住宅やモデル集落を建て、農地整備を行うことが自分たちの義務であると考えていました。こうして建てられた住宅は、有能な建築家と豊富な資金によってつくられた最新式のものでしたが、実際に農民に恩恵をもたらしたかどうかは疑問が残るところです。
ヴィクトリア朝後期に入ると都会に移住する人が大半となり、こうした農村での伝統的な暮らしを送る人は少なくなっていきました。しかし一部では、ヴィクトリア朝の頃に建てられたモデル住宅の名残を現在も見ることができます。
このように、当時の人々は各々の懐事情に合った住宅を選び、暮らしていました。裕福な上流階級ともなれば、広大で立派な屋敷に住み、贅沢な調度品や使用人に囲まれた生活を送ることができましたが、それ以外の一般庶民は、今回ご紹介したような家で慎ましやかな暮らしを送っていたのです。
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本書で紹介している明日使える知識
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