政略結婚が当たり前だった戦国時代ですが、武将たちはどんな恋愛をしていたのでしょう? それとも恋愛など全くせず、事務的な結婚生活を送るだけだったのでしょうか?
『図解 戦国武将』(池上良太 著)では、戦国武将たちの日常生活や価値観、当時の社会背景などを図解でわかりやすく解説しています。今回はその中から、戦国武将の恋愛と結婚についてご紹介します。
目次
一夫多妻で政略結婚も当たり前 戦国武将の結婚理由
戦国時代は現代とは違い、自分の意思で好きな相手と恋愛結婚することは珍しいことでした。特に身分の高い者ほどその傾向は強く、戦国大名ともなると政略結婚が当たり前だったといえます。戦国武将や姫君たちが政略結婚する理由は様々です。代表的なものを以下にご紹介しましょう。
・他国と同盟を結んだり、同盟国との結束を高めるため
・優秀な家臣を血族として迎え入れ、忠誠を得るため
・大国への恭順の証を示すため
・侵略した土地の姫君を妻や側室にすることで、その土地を治める正統性を持たせるため
このような理由で嫁いだ姫君たちは、嫁ぎ先の内情を故郷に伝えるスパイの役割も担っています。そのため、大名は自分や家臣が他国の姫君を妻に迎える場合、情報流出や家臣の裏切りに気を付ける必要がありました。
戦国時代の婚姻は一夫多妻で、子孫を残し家を存続させるため、男性は側室を持つことも許されていました。夫婦は別姓で、初婚であることは重要視されず、複数回結婚した経験がある者も少なくありません。たとえば織田信長の妹・お市の方は浅井長政の正室でしたが、長政の死後、柴田勝家と再婚しています。
仲の良い戦国武将夫婦もいた 戦国時代の逸話あれこれ
では、戦国武将にとって恋愛や結婚は不毛なものだったのでしょうか? 歴史に残る逸話を紐解くと、そうともいえないようです。恋愛結婚に成功した武将のひとりに、九州地方の戦国大名・竜造寺氏の家臣である鍋島直茂がいます。彼は同じく家臣の石井忠常の娘を好きになり、毎日のように密会していました。ところがある日、忠常の家の者に曲者ではないかと怪しまれ、怪我を負わされてしまいます。しかしそれでも彼は諦めず、ついにふたりは結婚することができました。
また、政略結婚でも仲が良かったといわれる武将も多くいます。
たとえば前述のお市の方と最初の夫・浅井長政はとても仲の良い夫婦だったといわれていますし、明智光秀と正室・妻木熙子(ひろこ)も夫婦円満だったといいます。
光秀と熙子の結婚にはこんな逸話が残されています。
ふたりが婚約した後、熙子は疱瘡にかかり顔に跡が残ってしまいました。そこで熙子の父はせっかくの縁談を破談にしないよう、熙子とよく似た妹を替え玉として光秀のもとへ送ります。ところが光秀はこれを見破り、元の約束通り熙子を正室として迎えたのです。
この話は後世の創作とする説もありますが、どちらにせよ、このような逸話が残るくらいにふたりは仲が良かったともいえそうです。
戦国武将たちの男色にまつわる恋愛譚
戦国時代は男色もごく普通のことで、男性同士の恋愛譚も数多く残されています。特に武将とその身の回りの世話をする小姓との間での恋愛話は多く、武田信玄や伊達政宗が小姓に宛てたラブレターの内容は非常に露骨なものでした。
若い頃に小姓として武将に仕え、寵愛を受けることは、将来の出世につながる場合もありました。
たとえば前田利家は織田信長の小姓を務め、ふたりはとても親しい仲であったことが文献に残されています。利家は元服した後も信長や秀吉に仕え、「加賀百万石」とうたわれる加賀藩主・前田氏の祖となりました。
また、井伊直政は徳川家康の小姓だった頃、容姿端麗な美少年として家康に好かれ、寵愛を受けていたといわれます。直政は単に家康と恋愛関係を結んだだけでなく武勲にもすぐれ、家康の天下取りを支えた功臣となりました。
他にも、戦場で見初めた武将を捕らえようとした者がいたり、片想いを悲観して無茶な戦い方をした結果、命を落とした武将がいるなど、戦国時代の男色にまつわるエピソードは枚挙にいとまがありません。
現代とは異なる部分も多いですが、戦国武将たちも現代の私たち同様、恋愛や結婚生活に一生懸命だったといえそうです。
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