作者:冴吹稔
異界から現れてバルドランド王国に知恵をもたらした賢者がいた。もと孤児の養女、メリッサは書記の仕事の傍ら、王都で二代目の賢者としての第一歩を踏み出した。
彼女を協力者と見込んで期待を寄せる女伯爵、ウルスラ・リンドブルムは目付け役として家臣の一人フェリクスを王都へ派遣する。
メリッサの兄弟子である特別顧問官ギルベルトもまた、彼女を片腕として師の遺した諸々の課題、難題に対処しようと、メリッサの囲い込みを図っていたからだ。
だがそんな中、王国に思いがけない災厄が海から迫ろうとしていた。
第十三話「戦う方法」
「疫病ですって……!?」
メリッサの喉から出た声はひどくかすれていて、自分のものではないかのように感じられた。
「ケーニクスハーフェンと言えば王都のすぐそばじゃないですか。まさか、あそこでもう病人が?」
「いえ、まだですが……事態はもっと悪い。疫病が発生した船に乗っていた旅行者が、すでに入国してしまったようなのです」
ギルベルトは乾ききった唇を舌で湿らせながら、やっとのことでそう答えた。
「そんな……」
「いま港湾管理局や街道沿いの各宿場が早馬で連絡を取り合って、旅行者の身柄を押さえようと急いでいます。ですが、まだ足取りのつかめていないものがいます」
「それでは、流入は防げないかもしれないのですね」
メリッサは平静を保つのが精いっぱいだった。
まだ王都へ書記として働きに出る前、シンスブルグにいた時分に近隣で流行った疫病のために、養父が何日も家を空けたときのことを思い出す。
養父も病に倒れて帰ってこられなくなるのではないか――そんな恐怖にとりつかれて、夜も眠れぬ日々が続いたものだ。
「メリッサ殿。どうか知恵を貸してください。お父上の携えておられた書物の中には、疫病を防ぐためのものもあったはずだ。北方で先年起きた小流行の際には、それが使われたのでしょう?」
「多分そうだと思います、でも……あの時はリンドブルム伯爵領までは流行が及びませんでしたし、私もまだ幼かったので当時の状況を直接には把握していません。それに――」
「それに、なんです?」
「父の知識は、そのままでは使えません」
ギルベルトの熱気を帯びた期待の視線に反して、メリッサは知っていた。
父の遺した本に疫病を鎮める決定的な方策など、記されてはいない。改訂版である「知恵の書」にも、原典である「げんだいちしきちーとまにゅある」にも。どちらにも。
「まにゅある」は奇妙な書物だった。さほど多くない紙数の中に恐ろしく多岐にわたる知識が詰め込まれているが、いずれもごく断片的なものなのだ。そもそも何を目的として書かれた書物なのか、なぜそんな本を養父が買い求めたのか、メリッサには見当がつかない。
その本の中に出てくる言葉の数々は、改訂版で意訳や注釈が添えられてなお、凡人の理解を超えていた。たぶん、あの本はそもそもこの世界で言う賢者のレベルをはるかに超えた知識を、当然のことのように享受している人々のために書かれていたのではあるまいか。
賢者マガキがこことは異なる世界から来た、というのは本当なのだろう。本人が語ったところによれば栽培されている穀物の姿からして違うらしい。
だからこそマガキは改訂版を著し、その知識をこの世界で使うための手掛かりをメリッサに遺した。二つの世界についての知見をすり合わせる過程で初めて、彼は真の意味で「賢者」となったのだ。メリッサはギルベルトにそうした経緯について話した。
「ですから……父のいた世界とここでは、もしかしたら病が起きる原因や仕組みまで違うかもしれない……いえ、多分決して同じものではないでしょう。だから、私たちは分かる範囲で打てる手を打つしかないんです」
「それは分かりますが……ではお父上はいったいどんな方法で?」
「分かりません。でも推測はできます。私の考えが正しければ、その方法ならば病の正体がわからないままでも、流行の拡大を防ぐこと、病気にかからないように人々を守ることはできる……でも、とてもたくさんの人手と、若干の犠牲が必要になります」
「知恵の書」には「疫学」というものについて若干の記述があった。人間や家畜の集団を対象に、病気にかかったものに共通する事項を列挙していくとかならずそこには何らかの法則性や関連性が見出される。
そうやって病気を媒介する生物や汚染された食べ物といった原因を推定し、それを避けることで患者の発生を減らす、というものだ。
この方法から導き出された疫病対策は、すでに王国でも一部適用されている。
患者との接触で病気が伝染するならば、人の行き来を遮断する――今まさに、王都周辺の街道ではこの方法で病を食い止めようとしているわけだった。
だが、疫学に基づく調査はある程度の数の患者が存在しなければ成立しない。そして、新たに発生した疫病が、以前に発生したものと同じ病気であるかどうか確認する必要がある。つまり、未知の病気が現れ未だ患者数も少ないという場合には、およそ役に立たないのだ。
「なるほど。おぞましいがもっともな話です」
メリッサの説明を受けて、ギルベルトは深くうなずいた。
「その方法で王国を守るためには、個人ではなく王国全体でこの危機に立ち向かわなければならないというわけだ」
「そうです。さしあたり、私たちにはまず会わなければならない人がいますね。つまり――」
メリッサが言葉を切ると、ギルベルトがその後を受けて静かに言い放った。
「ええ。私も今それを考えていた。メリッサ殿、あなたは私とともに、国王陛下に会うべきです」
眩暈がするような思いだった。薄給の書記として働き、伯爵領への仕官の話に胸を躍らせていた――その程度のものだと思っていた人生が、どんどん彼女自身の手で制御できない方向へと転がっていくようではないか。
だがもう、後戻りはできないらしい。この道は多分、父によって既に用意されていたようなものなのだろう。
「いつなら?」
「いつでも。私が一緒なら、王宮の門は素通りできます」
「では、早い方がいいですね。着替えてきますので部屋の外で待っていてください」
メリッサはギルベルトをドアの外へ押し出し、いつもの黒い革胴着の上にベルベットの外套と、頭には銀の飾りピンをあしらったベレーを載せた。精一杯の盛装だった。
* * * * * * *
「おい、ちょっと待ってくれ……どうも様子がおかしくないか」
フェリクスは声を上げて、先を行くコンラッドを呼び止めた。
「どうしたんだい?」
「――私たちが今立っているここ。これは、道なのか?」
コンラッドも首をかしげて馬の足元を見た。
「……確かに変だね。これはとてもじゃないが、そうは見えない。僕としたことが」
あるか無いかの境界に位置するような、細い踏み分け道のようなもの。踏み折られた枯れ枝に、蹴飛ばされた小石。そんなもので形作られた、かろうじてわかる何かが通った後。
いつの間に踏み間違えて入り込んだのかわからないが、二人は森の中で街道から外れ、方角の分からないおかしなところへ迷い込んでいたらしかった。
「引き返そう、元の道に出るまで。このまま進むと立ち往生することになりそうだ」
そういって馬首を返そうとしたフェリクスに、コンラッドは首を振った。
「そうは言うが、そろそろまた日暮れだ。日があるうちに森を抜けないと――」
二人は顔を見合わせた。
「おい……妙だぞ」
「うん。これは本当におかしいな。なんだかお互いの役割まで逆になってるみたいな気がする」
フェリクスはその言葉の意味に気づくと、少しふくれっ面になった。
「ひどい言われようだ。私だって別にそこまで猪突猛進、血気にはやって突っ込んでいくといった手合いじゃないぞ?」
「そうは言わないけれどね。君の方が本来なら、予定とか責務とかを気にして道を急ぐはずじゃないか」
言い合っているうちにだんだんと気味が悪くなってくる。二人は口をつぐんで押し黙った。
「これは……どうもたちの良くないものに見込まれたかな?」
「なんだって?」
「ダネイヴへ行く途中で、森の中で気配を感じただろう? あれさ。普段は森の奥から出てこないあいつらが、どうやら僕らに何か用ができたと見える」
「あれ、か。つまりそれは、人間ではない何か、ということなのか?」
コンラッドは無言でうなずいた。フェリクスは俄然、ひどく心細い気持になった。
森に潜んで人に姿を見せない何者かが本当に実在して、あまつさえこれから自分たちに何事か働きかけるというのだろうか?