作者:冴吹稔
平凡な現代青年が、異世界に放り出されて幾星霜――
現代知識を用いて辺境の領地を富ませ、賢者として名を成した彼、シンスケ・マガキは、その人生の終わりに二つの遺産を残した。
彼の知恵を書き留めた一巻の書物と、彼の名を継ぐみなしごの少女、メリッサ・マガキ。
シンスケはメリッサに託す。一人の知恵と力では、なし得なかった改革を。世の中の機が熟するまでは、おおやけにできなかった更なる知恵を。
第九話「父の遺した本」
出勤するなり、室長に呼び出された。
何か業務上のミスでもあったのか? メリッサは首をかしげながら、ここしばらくの書記としての仕事を思い返した。
はて。特にこれと言った落ち度や不始末はなかったはず。書き損じの羊皮紙はいつもきちんと削り加工に回しているし、古い書類の分類と保管も定期的に――
(あ……)
落ち度はあった。思い返して出てきた日常業務の記憶のいくつかが、 実のところ一か月以上前のものであることに気づいて、メリッサは愕然とした。市場の問題にかまけてすっかりおろそかになっていたのだ。
「メリッサ君……その、いつもご苦労」
「畏れ入ります」
室長の話の切り出し方は、言外に困惑がこもっていた。メリッサの仕事ぶりに対して言いたいことがあるが、何かに遠慮して言いづらい――そんな感じだ。
彼の口から出た次の言葉は、メリッサを 萎縮させるものだった。
「…… いろいろと話は耳にしている。お父上の業績のことを考えれば、まあ仕方がないだろう」
「畏れ入ります」
メリッサとしてはもう、同じせりふを繰り返すしかない。
「とはいえ体は一つしかないからな。今後は単純な書写や清書といった一般の業務は、ほかの書記に任せてよろしい。君が取り扱うべき文書は上つ方から直々に指定されることになった」
彼は一束の羊皮紙をメリッサの前に押し出した。
「当面はこの案件を、ということらしい。まったく、私にも何がどうなっとるのかよくわからんが……しっかりやってくれたまえ」
「は、はい」
「あと、君の処遇に関しては給料を十二ターレル増額ということで通達が出ている。帰りにでも経理係のところで受け取るように」
メリッサは内心で頭を抱えた。これは間違いなく、兄弟子ギルベルトの差し金だ。
彼はもうすっかりメリッサを自分の片腕として当て込み、庁舎の書記という立場で世間の目から守り隠しながら、大いに活用するつもりでいるらしい。
(困ったなあ……春までには身辺を整理して、伯爵領に向かいたいんだけど)
経理でターレル銀貨十二枚を受け取り、河畔の総菜屋でベーコンと卵のキッシュを買って下宿に帰る――メリッサは帽子とケープを衣装掛けに戻し、書記の制服になっている袖なしの上着をつけたまま、ランプをともして渡された書類に目を通した。
それはメレンハイムという土地の再開発に関する報告と陳情だった。二百年ほど前の戦乱で住民のいない荒れ地になっていたが、もともとはそれなりに栄えた農村だ。
近隣を治める有力貴族ランツェンマイヤー伯爵家が、数年前から管理人を派遣して人を集めさせ、再び農地として活用できるように手入れを続けている。
バルドランド王国では荒れ地の開発は広く奨励され、資金のあるものならだれでも行うことができた。開発が一通り済み、収益を上げられる見込みが立てば、国内の土地を管理する農林庁に申請を出す。
検討ののち認可されれば正式に領有を認められ、貴族領であればその土地についての法務は以後、紋章院に移行することになっているのだが――
「なんで、こんな書類が私のところに……」
ありていに言って、これが自分のところに来る意味が分からない。メリッサは戸惑い、ぼやいた。だが添付された別の書類に目を通すうち、その理由は次第に明らかになった。
ランツェンマイヤー家がメレンハイムに派遣した管理人が、農林庁に測量器具の貸与を申し込んできているのである。
測量の目的とは――開拓者が占有する土地の面積を正確に測り、広さに応じて課税するという新しい税制をしいて、メレンハイムからの税収を安定させることであった。
「バッカじゃないの!!」
メリッサは一声叫んで書類の束を机から取り上げ、ベッドの上にぶちまけた。
しばらく呆然と立ち尽くした後、買ってきたキッシュと昨日買ったパンの残りを机の上に並べ、エールで流し込みながら食べ始める。
あごを動かしながらも頭の中は、ギルベルトとその間抜けなランツェンマイヤーの土地管理人、そしてほかならぬ養父、賢者マガキへの怒りで渦巻いていた。
養父――賢者マガキも最初から『賢者』だったわけではない。もともとは王都から少し離れた山沿いの森に、ある日突然現れた。彼自身の言葉を信じるならば、別の世界から「転移」 して――
謎めいた話ではあるが平たく言えば放浪者、遭難者の類だ。
その時に持っていたのが、書店で買ったばかりだったという、一冊の本。表題を『げんだいちしきちーとまにゅある』というらしい。その原本は今もシンスブルクの「賢者の塔」深くにしまわれている。
彼は当初この本に書かれた知識を頼りに、何とかこの国で生きていこうと悪戦苦闘をしたらしいのだ。そのあたりの消息はギルベルトから聞いて初めて知った。
そうして生噛りな知識をあちこち で吹聴した結果はいまだに尾を引いていて、各地で面倒ごとの火種になっている。
(メレンハイムで計画されてるこれ……「検地」よね)
その年のごとの穀物収穫量ではなく、測量を行ってその農地の面積に対して課税する、というやり方だ。一見税収が安定しそうに思えるが、病虫害や悪天候と言った不測の事態があれば、実情に合わない酷税を課すことになる。
新開地などで実施するのにも向いていない。拓かれたばかりの農地には、過去の実績というものが存在しないからだ。ともかくこの方式、実際の運用にあたって細かな調整を怠れば、最悪の場合領主と農民の衝突が起こる。
ギルベルトは測量機器の貸与申請からそうした危険を察知し、メリッサに対応策や指導方針を急いで文書にまとめるようにと求めているのだった。
「お養父様の尻拭い、当分続きそうね」
賢者の知識は思った以上にあちこちへ伝播している。それも不完全、有害な形で。
対策をとれないわけではない。幸い手元には養父が最後に書き残した、『ちーとまにゅある』の改訂版がある。
この世界の実情に即して取捨選択、修正を加えたうえでメリッサのために書き残された『知恵の書』――その正式な表題を『異界の知恵を用いて世を治める者のための手引書』という。
この本の内容を紙に記したものを小出しに配布すれば、メレンハイムで起こっているようなことは未然に防げるだろう。だが、そのためには紙とインクがさらに大量に必要だ。
紙はリンドブルムの女伯爵に手紙で頼んだ。草木紙には現用の没食子インクと相性がよくない、という問題があるが、これはインク職人のエッカルトと話しあう必要があるだろう――
まったく、これではいつになったら王都を離れられることやら。
* * * * * * *
王都に隣接する広大な港湾地区、ケーニクスハーフェン。宵闇に沈んだこの界隈に、一か所だけあかあかと明かりをともしたままの建物があった。
港の施設と出入りする貨物および人間の管理を一手に担う、港湾管理官の事務所だ。三日前にフローリエンからの商船が入港して以来、管理官のボッシュ氏は残業続きだった。
「カライス港への問い合わせ、返事はまだか?」
ボッシュ氏は傍らの部下をにらみつけて、報告を催促した。もちろん無理を言っているのは自分でもわかっている。カライスまでは早馬でも片道二日かかる。
「明日には着くかと……出入りの漁船などにも報告を呼び掛けています、いずれ何かの情報が入るでしょう」
「何か情報が入るようなことがあってからでは、間に合わんかもしれんのだ」
彼を悩ませている問題は、フローリエンの商船が黄色の信号旗を掲げていたことに端を発している。それは、「検疫免除要請」を意味した。生鮮品を運んでくる沿岸交易船にはよくあることだが、異国の大型船となると異例だ。商船の船長は言葉巧みにごまかして尻尾をつかませなかったが、ボッシュ氏はその要請のもつ裏の意味に気づいていた。
この大陸のどこかで、またしても疫病が発生しているのだ。
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*この小説は『現代知識チートマニュアル』(山北篤 著)をもとに書かれています。
◎『二代目賢者の参考書』シリーズ