作者:久遠マリ
◇◇◇
若者は得意げな表情を見せた。
「最近、帝都……いや、首都によく現れる竜を成形してみました、緑色の鱗の竜、ご存知ですか、エラ殿?」
よく現れる竜については“碧森堂”に通い続けてくれている客が言っていたことを思い出す、何でも、その竜と行動を共にしている黒髪の女が元反乱軍の指導者に会いに来るらしい。彼女も問屋へ行く道すがらその巨体を拝んだことが何度かあるが、その姿が小さなシヴォライト鋼になって、机の上で翼を休めているのだ。
「うん、知っているけれど、凄い、よく出来ているなあ……いや、まさか君、彫金師の資格を持っている?」
「いいえ、知っているだけで、持っているとは言っていないですよ」
問えば、含みのある笑みが返ってきた。居丈高に鼻を鳴らした若者は、おっと焦げる、などと呟きながら調理台の火を止め、腕を組む。
「だが、あの鍛冶屋通りの者は、実践してみせるから使えない金属の屑でも何でも寄越してくれ、と言っても聞きやしない」
「うん、そうね」
彼女は気付く、言い方の問題だったのではないかと。だが、若者も若者で必死さを馬鹿にされない為に鎧を纏うしかなかったのだろう、とも思えた。どのみち、事情を知った今だからこそ、わかることである。
「そうね、自分の欲しいものを相手が喜んで取引してくれるようになる方法も教えてあげよう、役に立つよ」
「本当か……本当ですか?」
「うん、きっと将来の為になる」
少々尊大が過ぎる若者だが、この先は問屋に出向くことが多くなるだろう、気持ちのいい取引の方法を教えなければいけない。そして、彫刻刀一本でここまで出来るというのだから、ある程度作業を任せても構わないのではないか、と、彼女は考えるのだ。
「それもだけれど、フィン……魔石刻印、というか魔石関連の仕事、全部君に任せていい?」
「そこまで、いいのですか?」
彼女が提案すれば、若者の目は驚愕に彩られる。
「だって、これだけ出来るからね、それに、この竜の鱗の、繊細で均等な彫り……彫金は一点ものだったりするから同じことをする機会はあまりないけれど、術式の刻印は常に一定でなきゃいけないから、うちなら魔石刻印が一番向いている、その才能のある君が、私には必要だ」
「有り難いです、エラ殿」
机の上の竜を指差して言えば、嬉しいのだろう、若者は頬を染め、彼女も微笑んだ。
「昨日の君の言葉を借りるなら、とんでもなくいい拾いものだよ、私は運が良かった……お給料も弾むから、貯めて学舎の別専攻に行ったりして資格も取るといい、入学しやすくなっているし、私の時よりも、ね」
それから五日間のうちに、彼女が溜め込んでいた大量の魔石刻印の仕事は、一人の若者が涼しい顔でこなすようになった。最初の一日二日は苦労していたが、一つ仕上げる度に手を止め、彼女の助言に対し難しい顔をして頷いた後は、一度やった曲線描画の脱線や対称のずれなどの失敗を絶対に繰り返すことはなかった。
幾つもの魔石の欠片を無駄にしたが、そういう時は彼女が手本を示し、若者はそれをありとあらゆる角度から熱心に観察した。売り物になる刻印は彼女が加工して、耳飾りや胸飾り、首飾りなどに加工する。それを繰り返していくうちに、若者の目つきが次第に変わっていくのを彼女は感じた。
「彫金と、刻印する術式が調和する瞬間を見られるのが、興味深いですね」
彼が目を輝かせながらこんなことを言った納品日、装飾品を受け取った客は皆、満足して笑顔でそれを身に付け、帰って行った。
今までと比べると恐るべき速度で仕事が片付いていくので、ここのところ不足していた彼女の睡眠時間も必然的に増え、日増しに思考もすっきりと冴えてきた。
休日だ。起きたのは昼前で、若者が食事を作っていてくれたのも非常に有り難い。座る場所が二つないので、交代で机と椅子を使って、少し早い昼食を取った。若者が少々納得のいかない表情をしていたのは気になるが、用事があるのだ。
今日は正式に従業員登録をする為、二人揃って中央行政区の宮殿まで出向く予定である。
「よし、フィン、行くよ」
「ちょっと待って下さい、前髪の癖がまだ」
湯浴み場のすぐ外にある姿見を覗き込む若者は、新しい服を身に纏っている。彼女が給料の前払いだ、と、胴着や羽織、ズボン、サンダルなどの一式を買い与えたのだ。布は濃くも上品な木材色で揃えられており、ちゃんと男性ものだ。何より、宝石のような薄紫の双眸が良く映える。痩せこけていた身体も少しだけふっくらしたかもしれない、格段に見栄えが良くなった、寝癖はついているが。
「気にし過ぎなくても、ちょっと無造作な方が、隙があって可愛いよ」
「だから、子供扱いをしないで下さい、って、言っているじゃないですか」
おどけて言えば、苦笑が返ってくる。何だか表情も柔らかくなったなあ、と彼女は思うのだ。
「私より準備が遅いってどういうことなの」
「エラ殿が気にしなさ過ぎなのでは」
肩を竦めてみせれば、若者は明後日の方を向いてこんなことを呟くのだ。相変わらず顎をつん、と上げているが、その口元に浮かぶのは、高飛車な作り笑いではなく、年相応の悪戯っぽい微笑みだ。
「言うなあ、この、そういうところが子供なのよ」
「ああ、やめて下さいってば」
手を伸ばして髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜてやれば、彼は声を上げて笑った。
店の表から出ると、外は清々しい晴れの日だ。時刻は昼五の刻、ちょうど昼食の香りが集合住宅や店の軒先から漂ってくる頃合いである。
「おや、エラちゃん、おはようさん……随分若いねえ、配偶者かい?」
「おはようございます、サーラさん、新しい従業員ですよ」
雑貨屋の老婆が軒先で水魔石を叩きつけながら、二人に向かって挨拶をしてきた。彼女は、呻く若者の横でさらりと挨拶をして、水精霊が魚の尾を振りながら石畳にぴょんぴょん跳ねて水滴に戻っていくのを見る。
「ええと、フィニエンス・クエルドと申します、以後お見知りおきを」
「ああ、いい声だねえ……恋人でもなさそうだねえ、ということは、今から従業員登録かい?」
「ええ、休みなので、宮殿に」
彼女は微笑みながら、僅かに頬を染めて頭を抱える若者を、ちらりと見た。
「どちらかというと、子供か弟が出来た気分ですね」
「兄弟か、そりゃあいいねえ」
老婆は笑いながら、また一つ水魔石を石畳に叩きつけた。その首元では、術力を失った石を抱く仔竜が揺れている。子供扱いは勘弁して下さいと呟く若者だったが、何かに気付いたのか、前に進み出た。
「サーラ殿と仰いましたか、首元を拝見しても宜しいですか?」
「あら、わかるかい、お目が高いねえ……エラちゃんのくれた首飾りなのよ、これ」
老婆の自慢気な声に調子を合わせるように、若者は膝を折って屈み込み、仔竜に顔を近付ける。
「魔石だったのですか?」
「そうなのよ、ついこの間ね、盗人にこれを投げて、使っちゃったの……この子が気に入っているからいつも一緒だけれど、ちょっと寂しいねえ、エラちゃんは何かあった時の為に、って言って、くれたのだけれどね」
「成程……少し触っても良いですか?」
老婆は仔竜を首から外し、若者に手渡した。
「いいわよ、エラちゃんのお弟子さんなら、見たいでしょう」
「そうですね……精霊の思し召しの下に、このものに土の加護を与えたまえ」
聖句が唱えられたのは突然で、その細い指先から燐光が迸る。大地の色は複雑な蔓模様を描きながらあっという間に若者の手の中で収束していき、それが微かな燐光になった時には、仔竜はその腕に土魔石を再び抱いていた。
「まだ中央行政区は混乱していると聞きます、エラ殿と親しい方の御身に何かあっては困りますから、サーラ殿」
若者は膝が濡れるのも構わずにその場に跪き、そっと首飾りを差し出す。
「あら、まあ、有り難いねえ、やっぱりエラちゃんはいい人を見付けたじゃないかい、え?」
「弟子としてなら、そうですね、サーラさん」
嬉しそうに再び自分の首に仔竜をつけ直した老婆が言うものだから、彼女は苦笑いをするしかなかった。
雑貨屋の軒先で「今はこれで」と挨拶を交わし、老婆に見送られて、二人は宮殿へ向かった。旧帝国軍の兵士や役人の再就職に関する問い合わせや従業員登録等が非常に多いらしく、手続きを待つのに二刻もの時を要した。宮殿を出た時には既に日が傾いており、二人は共に紅色の帰路につく。
「お給料が出たら何を買うか、働き始めたら、それが一番の楽しみだね」
彼女は話し掛けた。すると、暫しの空白の後に、こんな答えが返ってくる。
「そうですね……椅子を買いたいです、まずは調理場にもう一脚置きたいと思って」
「また、何で?」
訊けば、着いてきていた足音がぴったりと止まる。
「……エラ殿と共に、食卓の時間を過ごしたいな、と」
恥ずかしそうに囁かれたその言葉が、純粋に心を打った。
彼女は、そうか、と呟いて、若者の方を振り返り、真正面から向き合った。
「……改めまして、ようこそ“碧森堂”へ、フィニエンス」
砂色の髪が、茜雲から漏れる光を反射して、きらきらと乾季の風にそよいでいる。花の綻ぶような微笑みをそのかんばせに浮かべ、フィンは、西日を浴びて宝石のように輝く薄紫色の双眸で、真っ直ぐに此方を見つめてくるのだ。
「これから宜しくお願いしますね、エレオノーラ師匠」
美しい声がそっと耳に届く、エラもつられて、にっこりした。
~END~