作者:冴吹稔
平凡な現代青年が、異世界に放り出されて幾星霜――
現代知識を用いて辺境の領地を富ませ、賢者として名を成した彼、シンスケ・マガキは、その人生の終わりに二つの遺産を残した。
彼の知恵を書き留めた一巻の書物と、彼の名を継ぐみなしごの少女、メリッサ・マガキ。
シンスケはメリッサに託す。一人の知恵と力では、なし得なかった改革を。世の中の機が熟するまでは、おおやけにできなかった更なる知恵を。
養父の仕事のその先へ進もうとする少女と、彼女を理解し援助の手を差し伸べる若き女領主の、奇妙な戦いが幕を開ける。
第四話「暗部」
メリッサはひどい衝撃を受けた。
川っぷちの総菜屋、といえば思い浮かべるものは一つしかない。オルダニー川――王都を西の荒野と隔てるように流れる川の、河畔に立ち並ぶ大小さまざまな食べ物屋のことだ。
独り身の衛兵や学生、時には忙しすぎる主婦までも相手に、お手軽で安い料理をこしらえて売っている。起源は二百年ほど前、川でとれる魚のうち小さなものを熱いスープにして供したのが始まりと聞いた。
実のところ、メリッサもよく利用する。
この子供たちになんと言ったものか。頭ごなしにしかりつけても、彼らはメリッサを警戒して姿を隠すようになってしまうだろう。それはまずい――
何がまずい? 頭の中でちりちりと警鐘を鳴らす感覚があるが、はっきりした考えにまとまってくれない。
(でもとにかく、それではまずい……!)
「……ふうん、そうなの。まあ、あまり暗くならないうちに帰るのよ」
内心とは裏腹にその場しのぎの言葉をとりつくろうと、メリッサはゴミ捨て場へ通じる路地の一つへ、足早に駆け込んだ。さもそちらへ帰るのだといった具合に。
――なんだ、あの姉ちゃん。
――変なの。まあいいや、はやく集めて売りに行こうぜ。
夕闇の中に声が響く。息をひそめて様子をうかがううちに、孤児たちの声は寄り集まり、どこかへ去っていく様子だ。あたりに気を配りながら、家と家の間の隙間から再び石畳の上へ足を踏み出した。
その足元を、いくつもの小さな影が黒い帯のようにかすめて走った。靴の上を乗り越えていくものもあり、そのわずかな重みがひどく生々しい。
「うわ、やだやだ! ネズミがこんなに――」
メリッサは眉をしかめた。そういえば最近ネズミを見かけることが多い。下宿の周りや時には庁舎の中でも、梁の上や物陰を動きまる気配を感じるのだ。あれだけのゴミが毎日出るのなら、増えて当然かもしれない。
小さな影は路地のわきにある側溝の暗がりへと吸い込まれるように消えた。それと重なるように先ほどの子供たちの姿が思い出された。
彼らと接触を続けなければまずいことになる、というさっきの直感――それは何だろう?
(ああ、もう。こんな時、お父様ならきっとなにか大事なことに気づかれるはずなのに)
賢者マガキが人に秀でていたのは、単にその知識だけではなかった。目に見えるものごとの意味を探り当て、起きていることの問題点を明らかにし解決する。そのために広範な分野に及ぶ知識を組み合わせて用いる。
それこそが、彼の『知恵』の本質だ。その方法自体はメリッサにも受け継がれているが、彼女はまだあまりに未熟なのだった。
ゆえに、今できることは一つ。
(追わなきゃ)
空はもうすっかり暗くなってしまっていたが、家々の窓から漏れる明かりが彼女の行く手を照らしてくれた。孤児たちは歩きながらしきりに何か話をしていて、それも彼女の追跡を助けてくれた。
やがて、表通りに近い区画の、軒に角灯をつるした建物の前に出た。子供たちはそこで、体格のいい料理人を相手に持ち込んだものを広げていた。
「ふん……少し傷んでるし形も悪いが、食えないというほどでもないな」
「当り前さ。ちゃんと山の下の方から――」
リーダーらしい年かさの子供が口を滑らせかけて語尾を濁す。なるほど、とメリッサはうなずいた。捨てる時の作業を考えれば、広場にできたゴミの山は、下の方にあるゴミほど新しいことになる。
「山の下?」
怪訝な様子を見せる料理人だったが、その子供は素知らぬ顔でやり過ごした。
「ま、まあ、穴場があるんだよ。で、どうする? 買ってくれるんだよな?」
「ああ、いいとも。これなら銅貨四枚ってとこだろう」
「ちぇ、シケてやがんな」
言葉とは裏腹に、孤児と料理人は口の端を釣り上げて笑った。商談成立、ということらしい。
少し色あせた羊の腿肉に、皮の表面がややしなびた果実。ぐんにゃりとくたびれた様子の魚。そんな雑多なものが店の奥へと運び込まれ、子供たちははしゃぎながら宵闇の中へと歩き去っていく。
追跡を続けるべきだった。だが、建物の壁に掲げられた看板の文字が目に入り、メリッサはそれ以上の気力を失った。
――『ゲッセンのお任せ厨房』
河畔でも特に大きな屋台を出している総菜屋だ。
もしかしたら一昨日食べた魚の揚げ物も、あのようなゴミの山から運ばれた魚肉だったかもしれない。そう考えただけで喉元まで苦く酸っぱいものがこみ上げてくるようだった。
その日はとうとう、夕食をとらずに過ごした。どこをどう通って帰ったのかも思い出せない。下宿の部屋でベッドに突っ伏し、頭の中でぐるぐると回る考えを持て余す。
ギルベルトが下水道の整備計画を今頃になって引っ張り出そうとしている、そのわけが理解できた。後手の対応ではあるが、彼は市場からあふれるゴミに対処しようとしているのに違いない。
街の地下に巨大な穴を掘り、トンネルを巡らせて水を循環させる。ゴミもし尿も排水も、下水に流してしまえばいい。そう考えているのだろう。
「でも、ね……」
養父の教えを思い出す。
――世界のすべては繋がって、循環している。何かを変えれば必ずどこかに影響が出る。それは良いことばかりとは限らない。
――人間の活動がある規模に達すると、神が作った世界の仕組みに収まり切れなくなる。そこからは人間が始末をつけなければならない。
漠然とした言葉だが、その口調は重いものだった。晩年の彼は、ことあるたびに口癖のようにそれを彼女に言い聞かせていたものだ。死の床でメリッサに託された『知恵の書』にも、それに照応するような記述があちこちに見られた。
多分、下水道を作っただけではあのゴミの問題は解決しないのだろう。下水道の流れ込む先は、地形的に考えて間違いなくオルダニ―川になる。
水が汚れ、魚が棲めなくなるかもしれない。とれる魚の種類が変わるかもしれない。そして大量のゴミを受け入れた海がどうなるか。そこではおそらく、街中のゴミ以上の問題が生じるはずだ。
「それに、あの子たちにとってはあれも仕事なのよね……」
不衛生な食べ物が出回るというリスクはあるが、孤児たちはああやって穏当な手段で金銭を得ている。彼らからそれを取り上げたらどうなるか? さらに悪質な新しい犯罪に手を染めるのではないか?
「どうすればいいのかしら」
視線をさまよわせたその先で、テーブルの上に置かれたギルベルトの『柔らかい壜』が、ろうそくの明かりを映して鈍く光っていた。それをしばらく見つめた後、メリッサはベッドから身を起こし、床の上に降り立った。
「市場を自由化したのがそもそもの始まりなんだわ。多すぎる商品が、競争に負けたものからゴミになっていく……そういうことよね」
インク職人のエッカルトから聞いた話では、市場の件はギルベルトの打ち出した政策だ。今のところのやり方はまずいが、ともかくも彼には養父の知恵の一部と、それを実現できる権力がある。
で、あるならば。
メリッサはろうそくを新しいものに取り換え、書き物机の上へ移動させた。シンスブルグの村で作った、試作品の紙にペンを走らせる。彼女の目の前で、それは断片的な書き込みから、次第に整然とした文章へ形を変えていった。
ゴミとして廃棄される食品は、おそらくもともと品質に劣り、値段を安くつけても競争に負けて売れ残ってしまったものなのだろう。
それなら、ゴミになる前に選別し、別のルートで流通させてやればいい。そこに孤児たちを関わらせられれば、彼らのためにもなるはずだ。
そのためには、ギルベルトの協力が必要だ。これが二代目賢者としての最初の、本格的な仕事になるだろう――そんな確信があった。