夏の昼間、池の水面に浮かんだ切れ込みのある丸い葉っぱの隙間から、ひょっこりと顔を出している花を見かけたことはありませんか?
それがスイレンです。スイレンは漢字では「睡蓮」と書きます。夜になると花を閉じて水中に沈み、昼になるとまた現れて花を開く様子が寝ているようだと、この名が定着しました。 日本に元々分布している野生のスイレンの原種は未の刻(午後二時ごろ)に開花する「ヒツジソウ」のみですが、スイレンには多くの品種があり、世界中に分布していて、大昔から人々に愛されてきました。
スイレンがどのように人々の暮らしと共にあったのか『花の神話』(秦寛博 著)を読んで、想像してみましょう!
目次
古代から信仰の象徴である「ナイルの花嫁」
古代エジプトには2種類のスイレンがあったと言われています。昼に咲く青いスイレン「ニンファエア・カエルレア」と、夜に咲く白いスイレン「ニンファエア・ロトゥス」です。ふたつのうち、昼に咲く青いスイレンがより神聖であるとされました。古代エジプトでは、太陽神ラーの信仰が盛んだったことがその理由です。太陽が昇っている間に咲く性質と、放射状の花びらの形が太陽を象徴すると考えられていたのです。さらに、スイレンとラーに関する神話もありました。
太陽はナイル川のスイレンの花から昇るとされていて、太陽神ラ ーはスイレンから生まれました。ラーから太陽の象徴を引き継いだ神ホルスの足元は、ス イレンの花で飾られています。 『花の神話』p.325また、昼咲きのスイレンの性質である「昼に咲いて、夜はしぼんで水没し、朝になるとまた浮かんできて花を咲かせる」ことから、「永遠の再生」を象徴する花でした。これもまた古代エジプトの信仰において重要な要素です。古代エジプトの王は「肉体が死んでも魂は不滅であり、また元の肉体に戻ってきて復活する」と考えられていて、死後も体をそのまま保存する為にミイラが作られていました。そのため再生を司る神や、偉大な王のミイラにもスイレンの花が使われていたのです。
来世で無限の寿命を与える再生の神ネフェル・トゥムは、スイレンの花の冠をかぶっています。紀元前十三世紀の王ファラオラメセス二世のミイラにも、青と白のスイレンの花びらが 使われた、十三本の花輪がかけられていました。 『花の神話』p.325「ラメセス二世」は「ラムセス二世」とも表記され、「オジマンディアス」の別名で知っている人もいるかもしれませんね。
また、スイレンは神や王に捧げられるだけでなく人々の日常生活にも重要な役割がありました。 白いスイレンの実を砕いてパンを作ったり、茎を茹でたりして食用にしていたのです。他にも薬の材料にされたり、柱の意匠として使われたり、スイレンは古代から現在にいたるまでエジプトの人々に愛され、「ナイルの花嫁」とも呼ばれ、エジプトの国花となっています。
正体は美少女!? スイレンにまつわる悲しい神話
ギリシア神話の中では、スイレンに姿を変えた美しい妖精の乙女「ローティス」の話があります。彼女の美しさに目をつけた男根神プリアーポスが言い寄ってくるので、ローティスはいつも逃げ回っていまし た。それでもプリアーポスが諦めないので、うんざりしたローティスは水辺で神に祈り、 真っ赤なスイレンの花に姿を変えたのです。 『花の神話』p.329古代ローマの詩人オウディウスの『変身物語』には、この話の続きが描かれています。
ローティスがスイレンになってから、しばらくたった後、ドリュオペーとイオレーという姉妹が水辺に遊びにきました。彼女たちはこの美しい赤いスイレンが妖精の化身であるとは知りません。姉のドリュオペーが手折ったのを見て、妹のイオレーもスイレンに手を伸ばしました。その時、スイレンに異変が起きました。
見ると花から真っ赤な血が滴り落ち、スイレンも怖がるようにぶるぶると震えていた のです。ふたりはびっくりして、急いでその場から立ち去ろうとしたのですが、ドリュオ ペーのほうは動けません。なんと、足に根が生えてきていたのです。イオレーも手伝っ て、急いで引き抜こうとしましたが、びくともせず、腰のほうまでどんどん樹皮のように なっていきます。ドリュオペーは「この花は摘まないで」と言い残して、とうとうスイレ ンに姿を変えてしまいました。 『花の神話』p.329ドイツではスイレンは水の妖精の化身であると言われています。人間が近づくとスイレンに姿を変えて身を隠し、人間がいなくなると元に戻るのです。別の話ではスイレンの葉の下にいる水魔が、スイレンを手折ろうとすると沼へと引きずり込むと言われています。
もしかしたら、水辺に遊びに来た子供たちがスイレンの花を摘もうとして溺れないための戒めなのかもしれませんね。
そしてスイレンに身を変えた乙女の伝説はヨーロッパだけではなく、アメリカにもあるのです。
アメリカ合衆国ニューヨーク州にあるタッパー湖は、ネイティブ・アメリカンからは「星辰湖」と呼ばれていて、そのほとりにはサラナク族が住んでいました。
サラナク族の酋長「ワヨタ(燃える太陽)」と美しい娘「オジータ(鳥)」は恋人同士でした。しかしオジータの両親はずっと前からオジータの嫁ぎ先を決めていて、オジータも両親の考えを尊重し、愛しているにもかかわらず、ワヨタを避けるようになったのです。
ある日、戦争から帰ってきたワヨタはオジータを抱きしめようとしましたが、オジータは逃げて星辰湖に突き出た岩の上に駆け上がりました。ワヨタは呼びかけましたが、オジータは振り返るだけで手振りで離れるように伝えます。
しかしワヨタはオジータの態度が理解できず、微笑みながら近づきました。するとオジータ星辰湖に身を投げてしまったのです。慌ててオジータを救おうとしたワヨタですが、湖のどこにもオジータの姿はありませんでした。
あくる日ひとりの漁師が、星辰湖の水の中に、白や金色の花がたくさん咲いているのを 見つけました。サラナク族の預言者は「これはオジータで、死んでこのような姿になった のだ。オジータの心はこの白い花びらのように純粋で、この金色の花のように愛が燃え盛 っていた」と語りました。 『花の神話』p.328湖や池の水面に静かに浮かぶ小さな花は、世界中の人々に可憐な少女を想像させたのでしょうね。
黒いスイレンには毒がある?
また、スイレンの伝説には少々恐ろしいものもあります。西洋の伝説では、黒いスイレン(black Lotus)には、毒や眠りをもたらす作用があるとされているのです。しかし、自然界には黒いスイレンは存在せず、近年になって品種改良で赤黒い品種が作られました。では黒いスイレンの話は何が元になっているのかというと、古代ギリシアの詩人ホメーロスによる『オデュッセイアー』に描かれた話だと考えられています。
トロイア戦争の後、オデュッセウスがギリシアに帰る途中、船がリビアの岬に漂着しました。オデュッセウスは三人の部下に偵察に行かせましたが、いつまでたっても帰ってこないので、自ら島に乗り込みました。
その島にはロートパゴイ(Lotophagoi ロートスの実を食べる人々)が住んでいました。 ロートスの実はサフラン色の果物で、おいしいだけでなく、世のすべての苦痛を忘れ、実 を食べること以外は考えられなくなる代物でした。偵察に出た兵士たちは、島の住人にロ ートスの実を勧められ、食べてしまっていたのです。それを知ったオデュッセウスは、三 人を鎖に繋いで拘束すると、すぐさまその島を離れました。 『花の神話』p.330「ロートスの実」とは蓮(ロータス)の実やナツメだともいわれていて、怠惰に暮らす人や夢ばかりみている人を英語で「ロータス・イーター」と呼ぶようになりました。
しかし実際は蓮の実ではなく、エジプトプラムというブドウのような房状の甘い果物だったようです。
実際は違っていてもこの話から、「この世の全てを忘れてしまう毒のような魅惑の実」のイメージが当時のスイレンの実にあったのかもしれません。実際のスイレンの実に酔っ払う効果はありませんが、品種改良で黒に近いスイレンもできたので、これから先、酔狂な人が改良を重ねたら、「黒いスイレンの実を食べると酔っ払って眠ってしまう」という伝説の再現ができるようになるかもしれませんね。
本書で紹介している明日使える知識
- 名前の由来
- 古代エジプトのスイレン
- 星辰湖のスイレン
- スイレンなった乙女
- 忘却の果実
- etc...