作者:冴吹稔
現代知識を用いて辺境の領地を富ませ、賢者として名を成した彼、シンスケ・マガキは、その人生の終わりに二つの遺産を残した。
彼の知恵を書き留めた一巻の書物と、彼の名を継ぐみなしごの少女、メリッサ・マガキ。
シンスケはメリッサに託す。一人の知恵と力では、なし得なかった改革を。世の中の機が熟するまでは、おおやけにできなかった更なる知恵を。
養父の仕事のその先へ進もうとする少女と、彼女を理解し援助の手を差し伸べる若き女領主の、奇妙な戦いが幕を開ける。
第一話「羊皮紙ならざる紙」
「困ったな……まだ七割の村が未納、うち半分は目途すら立たぬとは」
リンドブルム伯爵ウルスラ・リンドブルムはそのりりしい眉をひそめてため息をついた。
女ながらただ一人の嫡出子として父から伯爵領を継いで、もう七年になる。先代の治世に行われた農法改革で人口が増えたのは良かったが、新しく開かれた土地は十年を待たずして急激に地力を失い、領内は慢性的な食糧不足に見舞われていた。そこへ昨年の日照不足と、近隣で流行った疫病が輪をかけていた。
生産にかかわらない人口の流入と農地からの収量減で、伯爵領は気息奄々のありさまだった。苦肉の策として打ち出したのが、領内で工業製品を作らせ、その売却益で商人から穀物を買う、という施策である。だが、もともとが農村なのだ。村々で作れる工業製品などごくごく限られてくる。
租税として集められたそうした産物は、城の一隅にある大きな倉にまとめてあった。ウルスラは先代から仕える老執事とともにその検分に当たっていた。
「北部の十の村には羊皮紙を命じてあった。今日届いたのはそれか」
「さようでございます、お嬢様」
「お嬢様は勘弁してくれ、クラウス」
包みを解いて、何枚も重ねられた薄い灰白色の羊皮紙を取り出した。
「分厚いな……老獣のものを使ったか。こっちは穴が開いている。売値は落ちるが、まあ仕方がないな」
「さようでございますな……」
羊には個体差があり、それは羊皮紙の品質に如実に反映する。製造過程でのちょっとした傷を見落とせば、木枠に張って乾燥する間にそれは大きな穴となる。
若い羊を使えば質の良いものが取れるが、それは場合によっては、北方の冷涼な土地で羊に頼る農民にとって、将来の資産を減じる大きな負担になる。
「いくらか不足になるかもしれんが、まあ仕方あるまい。領主は領民あってのものだ、足りぬ分は何とか工面しよう……工面できると良いが」
いくつかの包みを同じように検分したとき、彼女は奇妙なものに目を奪われた。
(なんだ、これは――)
それは明らかに羊皮紙とは別のものだった。大きさが妙にそろい、形も羊皮紙よりずっと整っている。薄くしなやかで、それでいて強い。表面は白く輝くようで、不思議な美しさが感じられた。
「……どこだ?」
思わず舌足らずな物言いをしてしまう。執事のクラウスは、それを違う意味にとったようだった。
「北部で未納の村は、サダールとカッセン、それに――」
「いや違う、そうではなく……」
この妙なもの、羊皮紙でもなく樹皮でもぺプル葦でもない何か。これを納入してきたのはどこの村なのか。そう言いなおすと、クラウスは耳慣れない名を告げた。
「シンスブルグ?」
「はい。記憶では確か、先代様に用いられた賢者、シンスケ・マガキ殿が、一線を退いた後に居を定めた地であったかと。村の名もその時に変わったようで」
「賢者マガキ、か……」
聞いたことはある。早い話がリンドブルム伯爵家の現在を築いた立役者だ――良くも悪くも。
隣国エレンブルグ公国との戦争がうわさされた時代に、農法改革で人口を増やし、新式の武器を作らせて強力な部隊を編成、それによって挙げた戦功で、辺境の貧しい男爵家が伯爵にまで栄達したのであった。
ではこの奇妙な『羊皮紙』は、その知恵の残照によってもたらされたものであろうか。
ウルスラはクラウスに命じて、ペンとインクを運ばせた。手近の作業台に肘を乗せ、ガチョウの羽のペンにインクをつけて、その白いものの上に滑らせる。
まずは何より書きなれたもの――自分の名前。
「これは!!」
思わず声を上げていた。いかなる製法なのか、ほとんど引っ掛かりなくペンが滑る。羊皮紙なら表面の小さな傷や凹凸に当たって大きなにじみができるところだが、ウルスラの手にしたペンは、駿馬が駆けるように動いて文字を連ねていった。まるで、手習いの腕が上がったかのような流暢さである。
(思わぬ拾いものかもしれん)
もしかすると、この奇妙な羊皮紙もどきは、やりようによっては大きな利を生むのではあるまいか? ウルスラはそう考えていた。
翌朝早く、ウルスラは数名の友のものを連れてシンスブルグへ向かった。昼前には前方の丘陵の間から、黒々とした丈の高い塔が遠望されるようになった。
「あれが賢者マガキの建てた塔にございます」
供回りの一人がそう教えてくれた。
村について早速、村長の家に向かう。領主自らの訪問に、年老いた富農は平蜘蛛のように頭を下げた。
「申し訳ございません、羊皮紙でお納めしなかったのは私の考えではないのでございます。賢者様のご息女が、こうせよと。羊はつぶすに及ばず、領主さまは必ずこの紙をお気に召される、と――」
ウルスラは顔をしかめた。こちらの反応をおおよそ読まれているのが面白くない。賢者の息女、という言葉も気にかかった。
「まあよかろう。こたびの件は保留するが、今後は税の物納は、できる限り指示の通りにするようにな。それで? その賢者の息女というのは、村にまだいるのか?」
「それがその、賢者様が身まかられて数日後に、紙のことを私どもに指導された後、王都へ向かって発たれました……」
恐懼する村長をどうにかなだめ、息女の足取りを聞き出す。去ること一週間前、メリッサ・マガキと名乗るその少女は街道を南へ向かっていた。
「追うぞ」
一言だけ発すると、ウルスラは馬に鞭をくれた。
* * * * * * *
「困りましたね。私は王都で書記の仕事をしています。養父の喪が明けるまえに戻りたいのですが……」
「あのようなものを見せられて、はいどうぞと素通りさせるわけにいくか……その、紙とやらは羊皮紙の何十分の一の費用で作れる。そう申したな?」
「ええ」
メリッサ・マガキはてらいのない笑顔でそう答えた。ようやく彼女を捕捉した司教座都市レンウッドの旅籠で、ウルスラは賢者の息女と相対していた。
「ならば是非もない。わがリンドブルム家は、長年の間に次第に困窮しておる。このままでは、遠からず所領を売りに出すか、私自身を婚姻の市場へ売りに出すかだ。それでは父に申し訳が立たん。家を保つには婿を取って跡継ぎを儲けねばならんが、そのためには今の財力ではどうにもならんのだ。どうか当家に与して、立て直しに助力してほしい」
王国は年々拡大し、行政文書や裁判記録の量は膨大になりつつある。羊皮紙の供給が追い付かない現状に、あの『紙』を売り込むことができれば!
「お気持ちはよくわかりました。ではこうしましょう。紙の製法をお渡しします。必要なカンバ柳の栽培はシンズブルグの村長に頼んでありますから、まずは少数生産から始めてみてください。何事もなければ、私も次の春には身辺を整理してこちらへ伺いましょう」
メリッサはその目に強い光をたたえてウルスラを見た。
「あの紙を作るには、西の島国にある白い土が必要です。つまり、他国との平和な交易が欠かせません。それをくれぐれもお忘れなく」
語り明かした翌朝、メリッサは一人再び徒歩で王都を目指して去った。ウルスラは馬上からそれを見送りながら誰に言うともなくつぶやいた。
「財を蓄えたければ、領地の外まで視野を広げて目を離すな。そういうことか……」
とするならば、ただの辺境の伯爵で終わることはいずれにせよできそうにもない。それがわかる程度には、彼女は聡かった。
どうあっても、戻ってきてほしいものだ――麦の取入れの終わった畑を見ながら、ウルスラはしみじみとそう思った。
夏が近づいて来ていた。