作者:冴吹稔
平凡な現代青年が、異世界に放り出されて幾星霜――
現代知識を用いて辺境の領地を富ませ、賢者として名を成した彼、シンスケ・マガキは、その人生の終わりに二つの遺産を残した。
彼の知恵を書き留めた一巻の書物と、彼の名を継ぐみなしごの少女、メリッサ・マガキ。
シンスケはメリッサに託す。一人の知恵と力では、なし得なかった改革を。世の中の機が熟するまでは、おおやけにできなかった更なる知恵を。
養父の仕事のその先へ進もうとする少女と、彼女を理解し援助の手を差し伸べる若き女領主の、奇妙な戦いが幕を開ける。
第三話「邂逅」
「ずいぶんと涼しいな、ここは」
首筋を伝う汗をぬぐいながら、その男は吹き抜けになった階段室の中を見回した。
「壁の中に通り道を設けて、空気を外へ逃がしているんです。暑いところは文書の保存に良くないので」
メリッサは手燭を手に、男の先に立って階段を地下へと降りていく。
「なるほど。季節柄ありがたいことだ――」
メリッサが文書室の室長からあまりありがたくない仕事を言いつかったのは、季節がさらに一歩夏に踏み込んだような、強い陽の差す朝のことであった。
王宮からやってきた役人が記録文書を探したいというので、手伝ってやってほしい、というのである。
一風変わった男だった。書き物のし過ぎで近くなった目をしょぼつかせた、いかにもな文官かと思えば、さにあらず。
腰に佩いた長剣の鞘が、重そうなマントを押し上げているのがこの場に妙に不釣り合いだった。
「そんなマントを着てるから、暑いんですよ」
「もっともだ。だがこれはこれで便利なのでな」
庁舎の地下には作成されて十年を超えた、古い文書が大量に保管されている。重い扉を開けて庫内に入ると、壁一面に作りつけられた棚が燭台の明かりに浮かび上がった。
その棚に積み上げられた、無数の文書。巻かれたものもあれば綴じられたものもある。その物量の前にはさすがにこの尊大な男もひるんだらしかった。
「これは……大変な数だな。一日かけても探し出せるかどうか」
途方に暮れた男の様子に、メリッサは少しだけ、意地の悪い愉悦を覚えた。
(そっか。この人、こういう地味な仕事には不慣れなんだわ)
「ご心配なく、すぐにお出し出来ます……三十年前に検討されていた、王都の地下下水道整備計画の覚書、でしたね?」
男はメリッサに向かってうなずいた。
「そうだ」
「それでしたら――」
メリッサは入り口近くにある小さな卓に歩み寄った。その天板の下には、何段にもなった引き出しが取り付けられている。
「三十年前なら聖暦2320年。確か赤の年――」
そう言いながら、上から六段目の引き出しを開ける。そこには手のひらの半分ほどのサイズに切りそろえられた木片が、いくつかに区切られた箱の中に並べられていた――書記の見習い期間がようやく過ぎたころ、室長に願い出て作ったものだ。
「下水道整備計画、ということは王都普請局の作成で……あった、これだわ」
メリッサは箱の中から木片の一つを探し当て、その表面に記された文字を読みとると、そのまま棚の方へ手燭を持って進んだ。
「この棚です」
「なんと」
男の目が驚きに見開かれる。二人がかりでその棚をさらえると、目当ての文書は正午の鐘が鳴るまえに見つかった。
「いや、大変助かった。だが一体どうやってあんなに早く?」
褒められれば悪い気はしないものだ。メリッサはつい、目の前の男に自分がやったことの種あかしをしてしまっていた。
「簡単なことですよ。以前にここを整理したとき、文書が作成された年と作成した部署で分類しておいたんです。で、文書ひとつひとつの表題を、こちらの木札に記録してあります」
「なるほど、そして、この箱の中から目的の表題が書かれた札を探し当てれば、棚の場所が分かるというわけか……素晴らしい仕組みだな」
男の目が手燭の光を映し、磨かれた琥珀のように輝いた。
「君、名前は?」
その真摯なまなざしと満面に浮かべた喜びの色についほだされて、メリッサはするりと口を滑らせてしまった。
「――メリッサ。メリッサ・マガキと申します」
その途端、男の顔色が青ざめた。
「マガキ……マガキとおっしゃいましたか!? もしや、あなたはかの賢者、シンスケ・マガキ様の……」
何か大変な間違いをしでかしたような不安がこみ上げる。だがメリッサは彼の問いに、うなずくことしかできなかった。
「え、ええ。シンスケ・マガキは私の養父です……つい先ごろ、身まかりました」
次の瞬間、彼は一歩下がって床の上に片膝をつく礼をとった。
「道理で、あのような知恵をお持ちだったわけだ。マガキ様のご息女とは……どうぞ失礼をお許しください。私はギルベルト・フォン・グルデンと申します。去ること二十年前、まだお父上が都におられた頃に、わずかな期間ですがお教えを受けたものです」
「そ、そうだったのですか……」
神像を拝するような視線でこちらを見上げるギルベルトに閉口しながら、メリッサはこの思わぬ展開を受け入れかねていた。
(どうしよう……! まさかこんなに早く、向こうから現れるなんて。おまけにこっちの素性を知られてしまった……)
「私は今、王のおそばで特別顧問官――つまり、相談役のようなことをしております。以後良しなに」
古い文書の束を抱えての帰り際、彼はそう言って一方的に後日の再会を約した。
「私たちは、いうなれば兄妹のようなものなのですから」
* * * * * * *
夕刻――
メリッサは日の落ちた裏通りを抜けて家路を急いでいた。歩きながら手の中でずっと弄んでいるのは、ギルベルトから「お返しします」と渡された、奇妙な壜だ。彼は養父のもとを辞して以来、これを肌身離さず持ち歩いていたという。
ガラスのように透明だが、不思議なことに指で押せばへこむほどに薄く、柔らかい。注ぎ口には蝋のような手触りの、緑色をした蓋が付いている。壜そのものは相当に古いらしく、中には何かの液体が入っていたような、干からびた痕跡があった。
「お父様が、これを……」
あの男に与えたというのか。思いっきり何かを踏みつぶしたくなるような、なんとも言えない気持ちがこみ上げる。歩調をさらに早めて角を曲がると――目の前に、そこにないはずの壁があった。
(えっ)
慌てて目をしばたく。よく見れば、それは道幅いっぱいに進路をふさいだ、空の荷車だった。鈍重な駄馬に牽かれたそれは何台も連なって、どこかへ移動していくところのようだ。
木製の重い車輪が通るたび、緩んだ石畳がごとりごとりと音を立てる。その異様な隊列は、音のほかにもう一つ、ひどく不快な感覚を刺激した。
(なに、この臭い……!)
荷車からはいずれも、胸の悪くなるような悪臭が立ち上っていたのだ。たまらず迂回路を探して一つ手前の角まで後戻りする。だが、そのあたりには街区の整備が及んでいないらしく、かなりの距離を歩くまで下宿の方向へつながる道に交差していなかった。
「ずいぶん遠回りになってしまいそうね」
ようやく現れた角を曲がる。ところが、先ほど感じた悪臭はここにきてますますひどくなっていた。前方の薄明りの中に黒々とした影が浮かび上がる。臭いはどうやらそこからだ。小さな人影が、その陰で動いていた――みすぼらしい服装をした、痩せた子供が数人。
「……何してんの、あなたたち!」
メリッサは悲鳴交じりに叫んだ。そこにあったのは生ごみの山――しなびかけた野菜や腐った魚、ほとんど骨だけになった豚の脚といった、食べ物のなれの果てだったのだ。
してみると、あの荷車はここにごみを捨てて帰る途中だったのか。
市場が自由化されて流入する商品が増えれば、売れ残ってゴミになるものも増えるのだ。それを孤児たちが漁っている。
「やめなさい。こんなものを食べては病気になってしまうわ」
メリッサ自身、もともとは寄る辺ない身の上だったのだ。他人事でない気持ち、心からの忠告だった。だが、返ってきた返事はメリッサをさらに打ちのめした。
「自分で食ったりするもんか。これは川っぷちの総菜屋に売るのさ」
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